古道具屋としての覚書

閑話休題その弐
銭と金という言葉があります。
同じお金を指す言葉なのに何故銭と金と二つあるのか、これをちょいと考えてみましょう。
まず簡単に思いつくのが銭はどちらかと言えば小銭とかで言われるように比較的少額のお金を指していて金というのは大きな金額を差すのではないか?という事で概ねその通りなのです。
これは江戸時代あたりから慣例化したようで庶民が生活などで使うお金が銭、一方で例えば普請など大きな工事の場合お金は千両箱で動きます。
それが金なのだそうです。
もう一つ賃金とかいてチンギンと読むのはどうしてでしょう?
勿論賃銀という表記の仕方もあるのだけど どちらも読みはチンギンなのです。
これは当時庶民町民の中で一番高級取り(番頭さんとか商人、花魁、芸者さんなどは省きますが)は大工さんだったのです。
彼らは下手すれば現場に泊まり込みで何日も作業していて行き帰りには自分の道具箱を抱えています。
そんな彼等に御給金を永楽通宝みたいな銅銭で渡すととんでもない量になり重くて持って帰らません。
そこで彼等には銀で支払う事が慣例になっていました。
結果チンギンー賃金という言葉になったのです。
同じように旅をする場合当時の宿が一泊400文位と言われているのですがそれって永楽通宝が400枚ですよ?当時そういうのは紐に通してまとめていたのだけどそんなの何束も持って旅なんてできません。
それで旅の場合も銀を使ったのです。
これを路銀と言います。
因みにそれ以外にも当時の街道筋には為替を扱かう店もありそう不自由なく旅が出来たようです。
これは参勤交代の制度が街道筋や宿場の発展に大きく寄与したと言われています。
話が、やや脱線しますがかつて友人で30代でアルコール中毒となりこのままでは死にますと言われて入院したのですが禁酒して最初の二週間位は酷い幻覚に襲われたのだそうです。
それが身体中をとても小さな大名行列が 下にぃ〜 下にぃ〜 と言いながら練り歩くのだそうでその度にああこれで私の街道筋も発展を遂げるのだな!とそれでなんとか耐え忍んだのだそうです。
基本的には1か月で取り込んだアルコールにせよ、薬物にせよ、抜けてしまうのだけど依存症がそれで無くなるわけでなくその人も無事退院はしたけれど結局お酒はやめられないままでしたが。
もうずっと連絡とっていませんが生きていると良いなあと思います。
古道具屋のマメ知識でした。
閑話休題
何故静岡はヤクザ発祥の地と書いたかという事に関しまして説明しておきたいと思います。
これは国立歴史博物館の展示でもあったこの国でのアウトローの発生というものから来ています。
知人の研究者がこれに関わっていて私もほんの少しですが協力した事もあり中々興味深いものだったのでよければ読んでみてください。
かなり大雑把なので間違いなどもあるかもです。
それなりに検証もお願いします。
まずこの国の歴史におけるアウトローの定義そのものも諸説あると思いますが一気に組織的にほぼ同質のものが静岡から広がっていったのは事実でありその意味でヤクザというものを取り上げたのは正鵠を得ていると思います。
まずその発生なのですが江戸時代後期は特に絹産業が盛んになります。
これは国内への需要、国外への輸出なども含めてそれまでにない活況を呈していたのです。
その為その原料となる蚕を求めて商人達が産地に買い付けてまわっていました。
基本的に静岡の山岳部は殆どが段々畑でそもそもあまり稲が取れず内職として女性達が蚕を飼うのが通例になっていました。
当時年貢の基本はあくまでも稲であり蚕は場合によっては年貢の対象外でもあったのです。
そこへ高値をつけて買って行く商人が現れ蚕を飼っていた女性達は大金を手に入れるのですがなにしろ田舎なので折角のお金を使う所さえありません。
ろくに仕事をしない男衆がそのお金で博打に興じたのです。
これには関八州取締役の当時の事情がさらに大きく関わってきます。
当時治安が悪くなり始めていた関八州ですが正規の役人としては当初8名しか居らず移動手段が馬とか籠しかない時代に広大な関八州を管理するなどまず不可能です。
それでそれぞれの宿場を仕切っていた親分達に十手を預けて言わば自警団のような役割を持たせたのです。
でも結果としてそれは賭場を抱えた宿場を乱造することになりヤクザの原型である渡世人がそれぞれの賭場を渡り歩き同時に抗争の火種にもなっていったのです。
面白いのは基本的には無宿人でありほぼ反社会的な存在である渡世人=ヤクザが侍社会のパロディのような仁義、義理、人情などの掟に自らをしばって行動した事です。
それは現代でも大分カタチは変わったとはいえ綿々と受け継がれているようです。
アウトローなら徹底的に国家に敵対し独自の理想社会を目指せば良いと思うのですがその体制の中で権力と結びつきそれによる不当としか言えない利益を求めたり一般人に対しての詐欺や恫喝は平然とやれるのに国家には本質的には逆らわない、これがマフィアもそうですがヤクザなるアウトローの本質のように思えます。
私達の業界はよく絡んでいるのではないか?バックにそういう連中がいるのではないか?と疑われる事がありますが個人としてそういう人もいるかもしれませんが少なくとも骨董市単位でそういう人達と関係をもっているなどあり得ませんのでその辺りはご安心ください。

その斬新さに感銘を受けて三宅さんの骨董市に入会させてもらったのですがしばらくして追加されたルールには流石に首を傾げました。
1.パンチパーマ禁止
2.喜平チェーンのネックレス禁止
3.草履、雪駄禁止
4.開襟シャツ禁止
5.半ズボン禁止
6.ランニングのみでの出店禁止
なんだこれはある種の個人攻撃か?
と思ったらまさにそのまんまでした。
元々竹日さんの傘下にいた三宅さんは最初に独立を試みて上野に続いて飯田橋のラムラに骨董市を出しました。
その頃すでに始まっていた東郷神社蚤の市の邪魔になると考えられたのか飯田橋ラムラに関しては出店まかりならぬというような暗黙の了解がとられたらしく都内の業者が集まらなかったというのです。
私や当時行き場のなかった若手業者が出店できたのもそのおかげかもしれないのですが困った三宅さんは独自のルートを使って静岡以南の業者さんを集める事にしました。
まあところが困った事に静岡ってヤクザ発祥の地と言われるだけの事はありそれっぽい業者さんがヤマモリ集まりかねない事態となってしまったのです。
しかも最初に副会長を頼んだその一帯のまとめ役の業者さんが張り切り過ぎて骨董市初日に頭はパンチパーマに仕立て真っ赤な開襟シャツ、首元には金で極太の喜平チェーン、足にはおろし立ての雪駄と真っ向からの攻めのファッションで現れました。
ラムラの事務局長が唖然とするなか あの頭は地毛で。。なんて苦しい言い訳を強いられ、それであのルールを作ったんだよ、って後で教えてもらいました。
ちなみに副会長は新ルールを突きつけられとても守れませんと一回で降板してそれから4回ほど代替わりして最終的に私が引き継ぎました。
三宅さんは古道具屋という仕事が世に認められもっと広範なものになるよう尽力されていたのだと思います。
良くも悪くも私がこの世界に参入した頃の先輩方は確かにパワーはあったしとてつも無く個性的な方々でした。
基本はなにがあろうが力押しで全てがマイルールです。
役員の言う事なんてその役員がなにかひとつでも自分より力が上とでも認めなければまずなにも言う事を聞いて貰えません。
流石に会長の言う事ならきいてはくれますがコトが会長まで行けばその場で退会となります。
会長としても役員の指示に従えない業者の存在を看過するわけにはいかないからです。
確か開始当初は40軒前後で始まりましたが(都内の骨董市は当時最大でも60軒位でした)
隣の業者とナワバリ(出店場所の境界線)で揉めたのでとりあえず殴っといた、とか値段つけてと役員に言われたのがムカついて帰ってしまったとか、寒いからと言って七輪持ち出して火を焚いてしまったとか、まあなにかと問題起こして毎回誰かが退会になってました。
全く色々と大変だったのです。
勿論静岡以南の業者さんが皆悪者なんて事は全くなくてむしろ都内で活動していた古株な先輩業者さんのほうに難しい人が多くて私も何度か因縁つけられた覚えがあります。
でも
最近はそういう面倒ではあっても癖の強い面白い業者さんがすっかり居なくなってしまいました。
全体的に皆穏やかでがっついてなくてトラブルを避ける傾向にあるように思えます。
元々古道具屋なんて欲のカタマリみたいなものでそれで成り立つ商売だと理解しているのですが。
問題は起こさないけど本質はコトナカレ主義というのはそれは困るなあと思うのです。

TAF東京アンティークフェア実行委員会というそれまでになかった新しいスタイルの骨董市

他の骨董市と一線を引いて独自の路線を取っていた三宅さんのグループは他の骨董市の業者さんからの評判は決して良いものではありませんでした。
一つには厳然とした会則が存在していてそれを守れないと即退会というものがあってそれが他の見た目あくまでも自由気ままな骨董市の出店者にとって障害となっていたようです。
ですがいくら見た目自由気ままに見えていても現実には先輩後輩の縦社会であり師匠弟子の徒弟世界でもあるのです。
実際に彼らが窮屈に感じたのは全ての商品に分かるところに値段をつける、朝から酒を飲まない、売上が出来たからと店を放棄して飲みに行かない、お客様にはちゃんと丁寧に対応する、定時までは片付けずに商売をする、
雨天でも中止にならない、などが主な理由だったと思われます。
でもこれらは全て骨董市の未来をを見据えた必要最低限の取り決めでもあったのです。
まず全ての商品に値段をつけるというのは当時お客の顔色を見ながら商売をするというのが当たり前で値段は様子をみて如何様にも変化するなんて商売をする業者さんが大半だったのです。
そもそもそれをいくらで売っていいかもわからず最初のお客様に5000円と言ってみて売れなかった時の反応をみて次のお客様には3000円と言ってみるなんてざらでしたから。
まあそんな商売やっていて信用されるなんて夢のまた夢です。
もう一つの理由は売りたい値段はあるのだけど結構高いので敢えて値段は付けないでお客様が手にとってから値段交渉にはいる、つまり口上売というのだけど悪く言えば口八丁で売り捌くというやり方です。
一歩間違えれば詐欺と変わりません。
ですからまず値段を付けさせる、それが三宅さんの骨董市の最初の一歩だったのです。
それはそれまでのお客様が基本的には骨董をそれなりにでも理解した旦那衆であり騙すも八卦騙されるも八卦なんて洒落として捉えられる人達だったのですが土曜日の開催であり商業施設での開催となれば女性客が主力になりそういう人達にはそんな商売は通用しなくなるそれにはまずそれまでの古物屋は胡散臭いという悪い印象を払拭していかなくてはならないという考えがあったのです。
従って朝から酒飲むとか売り上げできたから何処かに飲みに行っただとかお客様に横柄な態度を取るなど全く論外だったのです。
定時までの商売も自分は売れたから帰りたいで帰ってしまったら残された他のお店は大迷惑です。また市としての信頼性にも関わります。
商業施設内であり駅前でもあるので通勤客のいる時間帯はビジネスチャンスでもあるのです。
雨天でも中止にならないというルールは特に評判がよくありませんでしたが最近は雨天でも決行という骨董市が増えて来ました。
三宅さんの骨董市は基本的には雨の時には屋内に出せるように手配してありましたし雨でいちいち休会していたら微妙な天気の時にお客様が来なくなります。
折角の交通費を払って来てもらうのだから雨天決行を予めうたっておけば安心して来てもらえるだろうという判断だったのです。

前回の少し補足です。
やがて都内の骨董市のキングとなる竹日のオヤジさんは元々は憲兵で戦争が終わった時にはとても都内に残れるものではなくて郷里である新潟に帰ったそうです。
本来憲兵というのは中々の特権階級でそう誰もがなれるものではありませんでした。
とは言え戦争が終わり一気に立場が逆転。身を隠すように郷里に戻ったオヤジさんにそんなに良い仕事があるわけではありません。
それで戦後が落ち着き始めた頃に片付けや廃品回収のような仕事を始めたそうです。
やがて人の勧めもありその中から選りすぐったものを都内の骨董商に持ち込むようになりました。
それは思いがけない高値で買い取られ同じように持ち込みをしていた業者さん達と よし!この金持ってパリに行こう!とパリの蚤の市を見てこれをなんとか都内で開催出来ないかと始めたのが東郷神社蚤の市だと聞いております。
ちなみにリサイクル運動市民の会というのがこの国に最初に立ち上がったフリーマーケットで東郷神社蚤の市に遅れること三年くらいではないかと思いますがこれは当時デザイン会社を経営していた石毛さんが仲間の小林さんとロサンゼルスに旅行に出かけその時にみたローズボールのフリーマーケットがその契機だと言われています。
それで立ち上げたのが代々木のフリーマーケットでした。
確か最初は二十軒程度でスタートしたと記憶していますが5年も経たないうちに100軒を超える大規模なフリマに成長していました。
ちなみに上野骨董市は東郷神社より少し先行して始まっていたようです。
骨董市としては乃木神社、布多天神社のほうが先行はしていたのです。
まあ布多天神社とかははじまりは江戸時代からといいますから流石にここには勝てませんが。
でも結構まえに主催しているテキ屋さん達ともめて割って出たグループが現在は継続しています。
テキ屋さん達も暴対法のからみとかで営業できる場所が減りそれを確保するのに必死なのです。
時代はいつも刻々と変化するものなのです。
骨董市昔話
思えば最初に出たのはまだ始まったばかりの代々木のフリーマーケットでした。
当時は原宿の東郷神社での蚤の市が一番人気でそれが第一日曜日と第四日曜日、花園神社の骨董市が第二日曜日と第三日曜日でした。
あとは乃木神社とか布多天神とかありました。
その頃の骨董市は敷居が高くて私のような何のコネも古道具屋さんに知り合いもいない馬の骨業者など全く相手にされずフリマしか出られる所はありませんでした。
でもそのフリマでさえ1日で10万円以上は売れていたのです。
これが一番人気の東郷神社に至っては竹日のオヤジさんが店閉める頃には腹巻に札束ねじ込んでいた(あくまでもウワサですが)と言われていて東郷の幹部引き連れてロンドンに行ってた(そう言う名前のキャバレーです、これもあくまでもウワサですが)と聞かされてました。
当時は最初の骨董ブームで古いものなら兎に角なんでも売れていました。
最初は古着がよく売れてそれから着物が売れ始めブリキの玩具がブームになってどんどん高値となり古銭もよく売れていました。
柱時計や真っ黒けの扇風機やタイプライター、トランクに喫煙具が飛ぶように売れていました。
それでも二、三年経つと落ち着いてきたりもして当時は露店での古道具屋さんて都内でも最大60店くらいではなかったかと思います。
それがお宝鑑定団の放送で骨董市というものや古道具屋さんというものが身近な存在として認知されるようになったのです。
あの番組でそれまで闇の中だった骨董品の相場が目に見えるものになり困ったのは買い出しに行った先々でお宝鑑定団ではあんなに高かったのにと言われてしまう事でした。
あれはあくまでもご祝儀相場ってもんでワタシらのような貧乏業者にはこれが精いっぱいでございます、オク様、でもアト五千円はつけさせていただきます!となんとか乗り切っていたものです。
あの頃はまだ30代になるかならないかの頃でしたがもう60代後半に来ていてそりゃ色々な事も変わるわなぁとつくづくと思うのです。
なかでも上野骨董市って最初は上野夏祭りに連動していて夏だけだったのですがその時点で気温が35度とか超えたら体温と変わらないぜ、こんなの死んじゃうよ!などと騒ぎあくまでも涼しくなった夕方から夜にかけての夜市だったのに今は夜8時前には店を閉めて帰ります。
だって午前10時からお店開けてて一番炎天下になる午後2時とか3時にはアスファルトからの反射熱もありますが簡単に40℃を超えてアスファルト近辺では50℃近くにもなるのです。
私達上野夏祭り骨董市の出店業者は温暖化の原因がなんであれ現実としての気温上昇を身をもって体験して来ているのです。

厄介なお客様
骨董市でお店出していて厄介だなと思うのは私達業者から買ったものをネットオークションなどに出品して利益を得ようとする人達の存在です。
厳密に言えば違法行為です。
元々盗品を売る事を規制するために古物免許制が存在します。
従って新品で買ったものをネットオークションやフリマで売る事はかまいませんが素性が曖昧な中古品を誰彼構わず売り買いさせていたらとても管理が追いつかないので古物免許制として古物台帳にいつ何処の誰から買ったかを記録として残し盗難などがあった場合にすぐ照合出来る様に現在の古物免許制が存在するのです。
従ってその辺のサラリーマンが小遣い銭欲しさに古道具屋から買ったカメラを転売にかけるのは違法行為になり得ます。
また転売目的と分かっていた上で古物免許のない人間に物品を販売した場合売った古物商も罪に問われる事になりかねません。
でも意外と分かっていない方が多いのではと思います。
この手の明らかに転売目的だろうというお客様で多いのは ギター、カメラ、腕時計、万年筆、玩具、古銭、切手、などで特にギターで転売目的のお客様はタチの悪い人が多いように感じます。
ネットオークションなどの相場感に縛られその価格よりかなり安くないとまず買いません。
その為値切ろうとあらゆる難癖をつけてきます。
こちらが多少でもギターが分かると判断すると今度は相場がと言い始めます。
それならこちらでネットオークションに出せるだろうと言う事実は最後まで無視して自分の買いたい価格を押し通そうとします。
カメラマニアの方もそうだけど基本上から目線です。
で兎に角相場感にしばられています。
そんな値段だったら神田のビンテージショップとあまり変わらないよ!
なんて言い出します。
その時点で露店で商売している私達を如何に低く見ているかという事にもなるのだけど全然気にしていません。
もの凄く失礼なんだけど。
私としてはあんまり面倒くさくなるとかつてPVなどでウチで作ったギターを貸し出してたとかってそういう話に持っていきます。
こう言う人たちの大半はメジャーなミュージシャンにはとても弱いので殆どはそのまますごすごと帰って行きますがこちらとしても本当はあまり気分の良いものではありません。
最初から苦労して調整したギターを安売りなんてするつもりは毛頭ないのだから値段が折り合わない時点でとっとと帰ってくれよ!といつも思っているのです。
かつては常にギターを並べていましたが最近並べてないのはそう言う理由もとても大きいのです。
でももう少しコロナが落ち着いて上野骨董市が前のように出来る様になったらまたギターを並べようかなと思います。
ギターはそれなりに収集してはいるのです。
この商売を始めた頃からそうなのですが修理したり補修したりするのは大好きなので。
昔書いた記事なのですが本当は終戦記念日に出したかった。


零戦パイロットだった爺様の話です。
この爺様 身なりが兎に角派手でした。
首にはやたらとごつい金のネックレスが下がっていてブレスレッドも金の太いヤツで指輪も金なら歯も金歯です。
なんでそんなに金尽くしなんですか?て訊いてみたら
「これは貯金だから。これだけ下げてたらどこでひっくり返っても病院で支払いに困らないだろう?」
「それはそうかもしれないけど強盗とかに襲われませんか?」
「そういうときは殺さないでーといってどれか差し出すさ。でもずっとこういうスタイルだけど襲われた事は一度もないぞ」
そりゃヤクザにしかみえませんから。
この爺様結局最後迄認めませんでしたが戦後の愚連隊に関わってようなのです。
話の中でそういう事がよく出てくるのですが本人はあくまでも傍観者だからとしらをきっていました。
で ある日
「にいちゃんはパンパンて知ってるか?」
と言うので
「はぁ 一応は」
「あそこに居る男売春婦ども(上野には男娼が居るのです。基本的には女装したオッサンです)とは違うぞ。パンパンだ」
「戦後の米兵相手の娼婦のことですよね」
「そうだ 知ってるじゃないか あれはひどかったなぁ」
「え?パンパンがですか?」
「いや 彼女達を叩いた連中がさ 戦後すぐって治安なんか無いも同然でな 皆今日食べるもんを確保するだけでいっぱいいっぱいだったんだ。かっぱらいだって 強盗だってなんでもありだった。浮浪児がそこらじゅうにいてなぁ」
「大変だったんですね」
「米兵が本当にひどくてな。日本の警察なんてなんの役にもたたん。女の子が米兵に連れて行かれたっていうから何人かで探しにいったんだ。でも見つけた時には手遅れでな。その娘はボロ雑巾のようになって転がっていたよ」
「そりゃ惨い話ですね」
「でもなしばらくしてその娘は米兵相手に商売してたよ」
「え?」
「そうするしかなかったんだ。中途半端に俺たちがみつけてしまったからな。今と違って純血だのにやたらとこだわる時代だったからな。米兵に手慰みにされたとなったらもう嫁になんていけるもんか 家族を養う為にもパンパンになるしかなかったんだ」
「そうなんですか」
「そんなことが当たり前だったんだ。手引きをする日本人だっていたし警官が見張りして俺たちをよせつけないようにだってしてたんだ」
「もっとひどいのはそのパンパン達を攻撃するオバはん達さ。パンパンが一人で客待ちしていると大勢で囲んで、恥を知りなさい!!このくず!!とか言って罵るんだ」
「そりゃひどいですね」
「そうおもうだろ?実際彼女達のおかげで米兵のワルサもいくらかはおさまっているはずなんだよ。自分たちの娘のために体を張っているとは考えられないのかね、ああいうおばはんは!」
「今でもそういう人いくらでもいそうですものね」
「もっと酷かったのは米兵がいなくなってからさ。彼女達は行き場を失って槍玉のように攻撃されたんだ。店に入っても食べ物も売ってもらえない。道を歩けば罵倒され石が飛んでくる、彼女達だけが悪いんじゃないのにな」
「それでどうしたんですか?」
「結局米軍基地のある町で店とか出したりして暮らしていたみたいだな さすがに今はもうわからんが」
私の最初の買い出しは病院でした。
上野骨董市で古びた医療器具を並べていたら上品だけどさばけた感じの奥様が
「あらー?こんなものが売れるの?」
と仰る。
そんなにホイホイ売れるものではないのですが私が個人的に好きで並べていると芸術家のタマゴみたいな子達が珍しがって買っていくんですよ。
と答えたら
ウチは内科と外科の病院で今度閉めるのが決まったので片付けに来てくれませんか?と仰る。
なんて有難い!それは是非お伺いします!
という事で後日お伺いさせていただきました。
そしたら戦前からあるという建物そのものがとても素敵な病院でしたがその時点で唯一の医者である院長先生が90も間近となり目もちゃんと見えないし耳も遠くなり手先も震えるしで誰も怖がって病院に来てくれないというのです。
戦災を逃れ3階建の古くて素敵な病院でしたが院長先生とずっと受付を担当していた看護婦さんと二人きりで一日中ずっと来てくれてもそのまま帰ってしまう患者さんを待つだけの状態がここ何年か続き家族の説得もあり漸く廃院を決めたのだそうです。
手術室もあって60年代のSFに出てきそうな無影灯とかあってそれはそれは楽しかったのですがもう20年位使われていないと言う事でタイルも剥がれて棚には中の液体が蒸発してカラカラに干からびた肉片みたいなのが入っています。
もうこのまま放置してB級オカルト映画とかの撮影に貸出した方がいいんじゃないかと思いましたが土地を借りていて返さなければならないので中が片付いたら更地にしないといけないと言う事でした。
何日かかけてようやく必要なものをまとめて買わせて頂き残りは解体屋さんに片付けて貰うという事になりました。
色々名残惜しい病院だったけど結局これをきっかけになんとなく繋がる事になり学校の勉強が辛くて家出かました息子さんの相談を受けたりとか当時中学生だった娘さんが社会人となったものの野球に夢中になり中々結婚出来なくてと相談されてそんなもの焦ってもろくな事はないから果報は寝て待ての心意気でどっしり構えていた方が良いですよなんてとても相談の答えになっていないような事を言っていたのですが今年のお正月の上野骨董市に可愛い赤ちゃんと旦那さんを連れて遊びに来てくれてそれは我が事のように嬉しく思えたものです。
まあそんな感じでこれからものんべんだらりと古道具屋が出来ればといつも思ってはいるのです。
マクドナルドは偉大だと思いました。
今はもう安売りの薬屋さんみたいなお店になってしまいましましたがかつてそこは三階までがマクドナルドで不忍池の入り口にそびえ立つとても便利な待ち合わせ場所でした。
不忍池で骨董市を開催している私達も良く利用していました。
同時に駅も図書館も地下鉄構内からも追い出されて(特に)雨の日に行き場を失ったプーさん達にとってはまさに救いの場所だったのです。
なにしろ当時は24時間営業でしたからコーヒー一杯で嫌な顔もされず冬の夜を凍死の危険なく過ごせるというのは彼等にとって命を繋ぐ上でもとても大切な場所だったのです。
本来なら行政がそう言ったシェルターを冬場だけでも設置するべきなのですがコロナの時でさえそう言った配慮はほぼ皆無でした。
マクドナルドは3階をプーさん達専用スペースとして開放していてコーヒーとポテトだけで一日中居座っても追い出す事はありませんでした。
結果として3階は一般客は入れない香り豊かな聖域となったのでした。
これがどれだけ多くのプーさん達の命を守ったかわかりません。
マクドナルドの寛大さには感謝あるのみです。
まあ私なんかは見た目でプーさんと変わらない認識だったようで店内利用だとすぐに3階に案内されていましたが。
そんな有り難くも偉大なマクドナルドでしたがコロナ禍になる随分前に閉店してしまいました。
理由は知るべくもありませんが今でもとても残念に思います。

買い出しってどういうものなのか?
骨董市やっていてよく聞かれる事なので覚え書きとして思うところを書いてみました。


私達古道具屋にとってなにより大切なのは買い出しです。
かつてはタウンページなんかに見開きで
高価買取!秘密厳守!なんでもご相談下さい!
なんて広告載せて後はひたすら電話を待つなんてのが常道でしかも大手になると都内全域のタウンページに広告載せたりしていました。
そうすると年間で100万円近い広告費がかかったそうですがそれでも毎日のように電話があり簡単に元が取れたと言います。
でも最近はそれがネットへと移行していて私も知っている業者さんが広告を出したりしています。
その内容はともかく買い出しを専業とされている業者さんは結構忙しいようです。
あとは家屋解体業者さんや廃棄物処理業者さんとコンタクトを持ちそう言うところから買い出すという方法です。
かつて友人だった田中さんは屑鉄回収業種さんともコンタクトを持ち鉄瓶や真鍮の置物などを集めてもらっていました。
それでもそういう他業種の業者さんと絡む時はお付き合いが大切です。
特に家屋解体は時間との勝負になるので声がかかったら速攻で行かないと良いものは皆廃棄かほかに持ち込まれたりします。
年末の忘年会などには必ず顔をだして人間関係を出来るだけ密にします。
とここまでは買い出しという話がくるまでのこれまで一般的だった方法です。
これがここ10年くらい前からは押し買いと呼ばれるようになったいきなり押しかけて買い出すという方法です。
でも本当はもっとまえから普通にやっていました。
まずここはと思われる古い一戸建てがならんだ町の家のポストに不用品片付けます!
なんでも買い取ります!
みたいなチラシを入れて後日ノックして歩くという方法です。
でも現在ではチラシを入れる事自体が違法行為になりかねません。
金や銀が高騰した時期に心無い業者が一般家庭相手に狼藉を働き社会問題にまでなってしまいました。
なのであまりお勧めではありません。
結局買い出しはまず話を貰うために自身を周知してもらう事と信頼される人間関係をいかに構築するかになるかと思います。
それには真っ当な古道具屋として認知してもらう事も重要であり骨董市にまめに長年でて実績を積む事も大切な要件になるのです。
私は40年という時間が作り上げてくれた人間関係を中心として無理のない範囲での買取を心がけています。
同じお宅から何度も声がかかる事もありますし紹介でお伺いさせて頂く事も多いのです。
あまりお互い焦らずに無理なくやっていければと思いますし本来この仕事はそんなにカリカリしたいたらやって行けないぜ!とも思うのです。
古道具屋には決まったやり方なんかがあるわけではありません。
出来るだけ多くを引き受けて出来るだけ沢山の事象を理解し、あまり固執せず長い時間を経て残されて来たものを次世代へと受け渡して行く大切な仕事だと理解しています。
個人の思いが詰まったものを扱うわけでそれならやり方は人それぞれになるのが当たり前だと思うのです。
古道具屋にはマニュアルなど存在しません。
自身で作り上げたスタイルでそれでやっていけてこそそれが武器になるのですし商売のやり方もそれは自ずと身についたものであるべきなのです。
価値観など時代の変化に応じてどんどん変わっていくものです。
同じものが普遍的な価値を持つのではなく持つものがそれを理解する為の多様な価値観を持つべきだと私は考えています。
どうやって買わせて頂くのか、大切にされてきた物をどう価値付けして譲って頂くのかそれこそが買い出しのキモなのですがそれは自らが試行錯誤を経て身に付けなければならない事なのです。


本日は交換市場でした。
正直休みたかったのです。
私が古道具屋として最初に行った市場で当時は誰の紹介でもなく知り合いも居ないような状態で市場に参加するなど身の程知らずもいい所だぜ!という環境だったのです。
とりあえずまともな大人が1人も居ないじゃないか!というのが素直な感想でした。
骨董市も見学に行った花園神社では朝8時には酒をかっくらいながらちゃぶ台でお客そっにのけでバクチしているしこんなのとてもじゃないけど自分に付き合えるとは思えませんでした。
その交換市場の振り人も赤いジャンパーに髭を生やしてて殆どヤクザにしか見えません。
しかも大きな声で怒鳴ったりするのでとてもおっかなくてこれはヤバいところに来たものだと思ったものです。
でも
挨拶したらちゃんと返してくれるし私の好みも理解してくれていて向きのものがあると強引に勧めてくれたりもするのです。
いつか犬を飼うようになって市場にも良く連れて来ていましたが多分パグという犬種でそれが飼い主と酷似していたのです。
親子というよりは本人が少し小さくなって四つん這いで歩きまわっているというくらいそっくりなのでした。
朝本人と間違えて犬に挨拶してしまった事もあるくらいです。
慣れてくると実にシャイで気遣いな人である事が分かってきて半分は有難くて半分は困ったものだという荷物を色々と買わせて頂きました。
私にとってはこの世界の凡ゆる事象を教わり指導して頂いた偉大な先立のお一人なのです。
それが突然何の断りもなくあの世へと旅立ってしまいました。
前回の市場が終わってその片付けや次の市場の用意をしに1人になったときに誰にも看取られずに逝ってしまったのです。
でも
ある意味幸せな死に方だったのかもしれません。
私も死ぬなら関係者や友人を巻き込まずに1人でひっそりと逝きたい。
まあでも残された膨大な不良在庫は弟子達が片付ける事になるだろうから今のうちに謝っておきます。
ゴメン
そんなわけで今日の市場には行きたくなかったのです。
気がつくと目が彼を探していました。
探す度にいるわけもなくガックリときて呆然としてしまうのです。
何か言いたくて手伝いたくて早起きして市場に向かったのに結局なにも言えずなにも手伝えませんでした。
なんだか情けない一日だったなと珍しく反省なんて事をしています。
彼は私より5つ程歳下でしたが古物商としては5年程先輩であり話す時にはそれなりですが敬意をはらっていました。
お互い相手の存在は知っていてまだ立川に店を出したばかりの頃にかってに店の前に壊れたギターを山積みにされた事なんかもありましたっけ。
元町田の暴走族で兎に角お神輿を担ぐのが大好きで基本的にはそっちに人生をかけている男でした。
口は悪いけど面倒見は良く自称右翼でしたが何方かと言えば神道とか真言密教に興味があり祭りをはじめとして江戸文化そのものに憧憬を抱いていたように思えます。
話すようになったのは今から20年以上まえの当時町田にあった古物交換市場。
確か雪がまだ残っていて氷柱とか垂れ下がる中を私がゴム草履で足をベシャベシャにして平然と歩き回るのをみて なんて男らしいんだ!と思ったんだそうです。
でもそのドロドロの足で会場内に敷き詰めてある座布団に足跡をつけながら歩き回るのを見てなんて最低の人間なんだ!と呆れ果ててましたっけ。
でもそれから話すようになりあちらの骨董市、こちらの骨董市で顔をあわせ基本的にお互い骨董市の役員でもあった事からより関係が近くなっていきました。
彼に誘われてあちこちの骨董市に出店してこちらからもお願いしてこちらで主催する骨董市に出店してもらった事もありました。
問題業者の情報をやり取りしお互いの骨董市の運営を如何にスムーズにするか、そういったやり取りもよくやっていました。
彼は短気でべらんめえでとても癖の強い男でしたが努力家で勉強熱心であり情報は正確でした。
その頃彼が役員をしていた骨董市で隣に店を出してた頃まだ暗いうちに業者さん相手に荷物を売っていた彼は午前6時には販売終了となりこちらは さあやっと商品並べ終わってこれからだぜ!ってのに朝ごはん食べに行こう!って言い出すのです。
え?でも朝6時だよ?この近所に24時間のファミレスなんてあったっけ?
大丈夫だよ!行きつけの店があるんだよ!
で まだ閉まっている店のシャッターガンガン叩いて開けさせてそのまま朝から宴会でした。
まあ大体がこういう感じでしたが他の役員が酒でトラブルを起こしまくった事と酒気帯び運転の罰則が強化されてからは朝から宴会はなくなりましたが。
因みに叩き起こされていたお店はこの前久しぶりに行ってみたら洋装品のお店に変わってましたね。
彼の息子が3歳の時に上野骨董市に遊びに来てその息子に 男は風呂入っちゃいけないんだ!と教えたらそのまま風呂に入らなくなり家庭内争議となって奥様に文句を言われてシブシブ抗議の電話をかけてきた事もありました。
三度の飯より祭りが好きであちこちのお祭りで神輿を担ぎに行ってました。
義理堅く根は真面目もいいところで頑固だったけどちゃんと人の話しを聞ける男でした。
まだまだもっと馬鹿話をしていたかったけど余命一年を知らされて最後の4カ月は市場にも骨董市にも来なくなり久々に市場に顔を出した彼は別人のようでろくに話す事も出来ませんでした。
息子から連絡をもらい不覚にも涙が止まらなくなりお通夜では一緒に市場を運営している先輩業者と長い思い出を話をしてしまいました。
今は遠い日々になってしまったけど彼はこの業界を作り上げてきた人間の一人だったしあるべき道具屋の鏡のような存在でした。
我々の世界は個人としてその我を貼りとおすことで成立するものでしたが最近はなんだかファミレスかコンビニ店員のマニュアルかというような接客をする若手業者が増えるなか商品の手に取り方が気に入らない、お客の癖に態度が大き過ぎると追い返す彼の商売はこの世界そのものに対しての愛情と愛着そのものだったんだなあと思います。
もうあれから何年も経ち
彼が死ぬ間際まで心配していた古物交換市場は場所を変えてしっかり存続しています。
若い世代に引き継がれ随分様変わりしましたがそれでも彼を含めた多くの血脈が流れていてそれが続いていけばなあと思うのです。
上野公園殺人事件
色々な所で骨董市を開催して来ましたが上野と横浜に来るお客様はとっても濃い人が多く印象に残っています。
しかもトラブルもとっても濃いのです。
少なくとも他の骨董市で死体が転がっているなんて事はありませんから。
当時は不忍池の周辺に車を停めておけました。
その為基本的には車は止めっぱなしになります。
荷物の出し入れや配達や買い出し、そのまま車中泊も出来たので色々助かっていたのです。
そんなある日車が停めてある所に行こうとしたら黄色いテープが貼ってあります。
刑事ドラマにありがちな犯罪現場に入れないようにテープが貼ってあるアレですね。
困ったなーと様子を見ていたらお巡りさんがきて「あっちの車の関係者?」って訊いてくるので
「そうなんですけどなんかあったんですか?」
「車の下で人が死んでいるんです。こころあたりありませんか?」
「え?何を言ってるんですか?」
「あなたの車ってどれですか?」
「あの2番目に停まっているボンゴなんですけど」
「それじゃないですね、その三台後ろのハイエースなんですけど持ち主わかりますか?」
「わかるけど今日はまだ来ていないですね」
「じゃあ来たら連れてきてもらえますか?」
という事で小一時間経って到着した持ち主を連れて行ったら立ち会いのもとで車を動かして実況見分がはじまりました。
死体はとっくに運び出されていて刑事ドラマでよく見る死体のカタチの輪郭が書いてありました。
それで1時間くらい実況見分に付き合いその後調書を取ると言う事で業者さんが入れ替わり立ち替わりで警察署に呼び出されてました。
死体の身元はすぐに割れました。
財布がそのまま残されていて運転免許証や保険証などがあったようです。
それによると被害者は埼玉の住人で自営業。
2ヶ月に一度くらい公園のこの場所に来て仲良くなった浮浪者達と酒盛りをしてそのまま皆で公園で野宿をしながら4〜5日ほどを過ごしてまた埼玉に帰っていたようです。
そんな人もいるんだなあと感心していたら結構そう言う人は多く公園で寝泊まりしているから浮浪者というわけではないと取り調べをしていた刑事さんに言われました。
この人って覚えてますか?
と写真を見せられましたが見覚えはなく
「いや、わからないですね」
と答えるとアルバムみたいに公園に出入りしている浮浪者達の写真を見せられました。
それにはほぼ知っている顔ばかりでしたが何故まだ事件が起こったばかりなのにこれだけ顔写真があるのか?
予めなにかあると考えて撮っているのか?
それだとやり方としてはおかしいんじゃないのか?
なにもしていない、公園に居ると言うだけで写真を撮るのか?それってある意味人権侵害なのでは?
と訊いてみたら
「彼等の存在はとても不安定だし何か事故に巻き込まれても親族にさえ連絡が取れない、それだとこちらも大変困るので予め本人達の了承を得て撮影し保管しているのです。私達も私達なりに彼等を守ろうとしているのでそこは信頼して協力して下さい。まずは犯人を捕まえないと2次被害がでるかもしれないでしょう?」
確かにそう言われると反論も出来ないしなんにしても殺人事件ではあるし殺された人の家族の無念も考えできる範囲での協力と言う事になりました。
でも
結局ほぼ毎日のように警察関係者が写真をもって骨董市に現れて近くに居た浮浪者が強引に警察に連れて行かれ自白を強要されたなどと言う話も聞こえてきたのでやはりなんだかなと思ったのでした。
結局犯人は特定出来なかったのかそのまま尻切れトンボでこの件は終了したようです。
残された御家族は不満だったでしょうが冤罪が出なかっただけ良かったと思うのはやはり不謹慎な事なのでしょうか。



プーちゃん、浮浪者と言ってもその人となりは千差万別です。
物凄く当たり前の事なのですが。
この社会の大半を占める普通に会社に行ってる人達と同様にそれはそれは色々な人達が存在するのです。
浮浪者になる事はひとつも特別な事ではありません。
今回のコロナ禍により少なからぬ人達が職や家を失い浮浪者となりましたがそれは誰にでも起こり得る事なのです。
今から40年くらい前にも上野公園には浮浪者がいました。
でもその頃の人達はコミュニケーション能力がとても低くそもそも精神的な障害を抱えているような人達が少なからずいたように思います。
公園に居るとは言ってもまだブルーシートや段ボールなどで小屋を作るでもなく日がなベンチに横になっていました。
見かねた近所のおばさんが家で使わなくなった毛布や古着なんかをあげたりもしていましたがその頃はまだ地下鉄の構内とか駅とかの隅に寝ていても排除される事もあまりなくて夜や雨の時はそこに回避して昼間は公園周辺にいたようです。
それにそんなに人数が多いわけでもありませんでした。
彼等は大人しく公園の隅のベンチにいましたが時折公園の職員に文句を言われて追い出されていました。
でも当時の職員が力ずくで追い出そうとする様は日頃浮浪者を迷惑と考え自分の店から遠ざけていた業者さんでさえ怒らせるものでした。
(結局浮浪者が増えすぎて公園職員ではどうにもならなくなってからガードマンを雇うようになりガードマンは概ね温厚で注意をして話し合いで退去してもらっていました)
増えて来たのは多分バブルの前後からではなかったかと思います。
まずは毛布一枚あればなんとか凌げる地下鉄構内であるとか新宿の駅前近辺に集まるようになり段ボールを使うようになって行ったようです。
バブル崩壊以後は浮浪者も大分様変わりしたように思えます。
事業に失敗して多大な借金を抱えて身を潜めるために浮浪者になっているとか
会社が倒産して逃げ込むように来たとか
ギャンブルで身を持ち崩した
というような人達が流れ込み昔からいた浮浪者を追い立てるように彼等の居場所を占拠して大きな顔をして当然の権利のように住み着くような人達が公園にいつくようになったのです。
正直彼等の事はあまり好きになれませんでした。
ありもしない自分達の勝手なルールを作り上げて朝から公園で酒盛りをするような連中など認める気にはなれなかったのです。
それでも言葉巧みに擦り寄って業者さん達を取り込みあわよくば中に入って来ようとします。
なかには手伝いを始めて骨董市の関係者を装うような輩まで出て来てしまいました。
地回りともうまく付き合いそれまで細々と公園で生きて来た浮浪者は彼等に追われて公園の隅に追いやられてしまいました。
それからしばらくして石原都政となり兎に角公共の施設から浮浪者を追い出すという施策になりましたが行政はそれなりの代替条件を出しました。
でもそれをうまく利用できたのは後からやって来た彼等のような連中で障害を抱えより排他的になっていた本来なら一番救済を必要とする人達にはなにも届かず結局囚人部屋のような所に押し込められてより障害を悪化させる結果にしかならなかったようです。
最近そのグループにいてヤクザの使いっ走りをしていた男が死んだと聞きました。
元自衛官上がりで退官後はまともな職に就かず彼女がいたのだけど売春をさせて自分は地回りから溢れ仕事をもらって生きていたようです。
彼女のほうは国が手配したアパートで生活保護で生きていると聞いています。
ここ3年ほど上野公園から離れているからかなんだかとても遠い話しに思えますがそれでもかつての隣人達に幸多かれとは思うのです。

ぷーなオッチャンとの微妙な思い出。
そのオッチャンは浮浪者仲間からも敬遠されていて孤立していた騒がしい男だったのですが持ち前の人懐っこさと厚かましさで気がついたらいつの間にかウチの上野骨董市に出しているお店に居着いていたのです。
元は大工という事でそれなりに器用で頼めば簡単な事ならなんでもやってくれるしその代わりと言うわけでも無いけどご飯とワンカップそれと開催期間中は夜間警備を兼ねてお店(運動会なんかでよく見かけるテント)に寝泊まりするというのがそれなりの彼の労働への報酬のようになっていました。
彼は見かけは熊みたいなオッチャンでしたが人懐っこくすぐに誰とでも仲良くはなるのだけど頑固で融通がきかず喧嘩にもなるので中々受け入れ難い人でもありました。
まあでも何故か私を慕ってくれていたようで実際彼の存在は客商売として迷惑なところもありましたがお店の設営や撤去などの力仕事には本当に重宝していました。
そんなある日次回の骨董市までまだ結構日があると言う時に深夜彼から電話がありました。
なんと車に轢かれて今病院にいると言うのです。
深夜横断歩道を渡っていたら左から突っ込んできた乗用車にはねられそのまま病院で入院となっていたのです。
相手の運転手はお酒を呑んでいて信号も無視していました。
ほぼ相手が悪いのですが保険会社が住所や銀行口座がないと保険金は払えないと言っているのでなんとかして欲しいという事だったのです。
幸い骨折などはなくお金もなかったので検査だけとなりましたが後になって足の付け根に大きなダメージを負っていた事がわかります。
保険会社も交えて話し合い当座私が身元引き受け人として交渉する事なりました。
それでなんだかんだで3ヶ月くらいかけてそれなりな額の保険金がおりて彼はそのお金で置いて来た家族の様子を見に東北まで帰っていました。
確か一時金として50万はあった筈なのですが結局家族の姿を通り越しにみただけで帰って来て風俗とパチンコと豪華ホテル宿泊なんかで3日ほどで使い尽くしてまたテントの隅で寝ていました。
まあしょうがない彼のお金だしとそのままにしておいたのですがある日不調を訴えたので病院に行かせたら事故の後遺症が出ていたのです。
すぐに診断書をとり再度保険会社と交渉して以後なにがあっても問題にしない事を条件に60万円ほどのお金ならすぐに決済できるという話になりました。
これから歳をとりさらに生活が難しくなるのに障害まで抱えてこの金額ではと思いましたが本人はそれで良いと先に認めてしまい判子までついてしまったのでもう後の祭りでした。
そのお金も3日と経たず使ってしまったと記憶しています。
4日目の夜にはベロベロに酔っ払ってテントの隅で寝ていましたから。
まあ
でも本人的には色々吹っ切れたようでそのお金で飲みにいったバーで仲良くなった酒屋のオヤジが駐車場に置きっぱなしにしていたもうタイヤがペシャンコになったようなボロボロの乗用車を好きに使える権利をもらって上野に私が居ない間はそこで寝泊まりするようになっていました。
そうやってのらりくらりと彼との関係は5年ほど続いていましたがあるとき些細な事で言い合いになり機嫌を損ねた彼はそのまま居なくなってしまいました。
なんとなく2人とも年寄りになって一緒に暮らすようになったりするのかと思ってもいたのでこんなに簡単に人の関係というのは壊れるものなのかと驚きましたが後の祭りでした。
いつかまたテントの隅で寝ているもんだと考えていたのですが結局帰ってきませんでした。
かと言ってこちらから探してわざわざ関係を修復するような気にもなれないのでした。
あまり綺麗な別れ際でもなかったのでこちらにも拭い去れないわだかまりのようなものがあったのです。
今はどうしているのか知ることもできないのですが5年ほど経ってから当たり屋のように車の前に飛び出してあわや死ぬ所だったと公園に流れてきた浮浪者に聞かされました。
でも
それもまた食いあぐねてなんとかこちらに戻りたいが為に彼が作ったような話にも思えるのです。
でもそれならそれで生きているんだなと、
生きていればまた会う事もあるだろうなと。
そう考えるとあの時のわだかまりみたいな記憶も少しは解けていくように思えるのでした。

続きです。
ある日妙な話が聞こえてきました。
公園の浮浪者達が住んでいた廃材と段ボールとブルーシートで作られていた家が行政により強引に撤去されたあと行き場を失ったかつての住人達はそれでもまだ公園には出入りしていたのですがやがてだんだんと減っていきました。
その中には流石に行政もそれではまずいとなり方針を変えてアパートの家賃の半分以上を持ち仕事がみつかり安定するまでの期間をバックアップするという施策を始めました。
それでも家賃がタダというわけではないし電光熱費はかかります。
それでもまだそこそこ生活力がある人達がその施策のなかで新しい生活を始めましたがそれさえ出来ない人達の方が多く問題でした。
彼等は公園以外でなんとか寝泊まりできる場所を確保してそれまでよりさらに過酷な生活をはじめるしかなかったのです。
それでもまだ昼間のあいだは公園に来ていて地回りがもってくる仕事やかつての仲間達に逢いに来ていたのですが
そのうちの何人かは仕事がみつかったのでしばらく帰って来れないという、でもそれから半年以上経っても彼等は帰って来ませんでした。
地回りに聞いても埒が飽きません。
彼等がいうには自分達とは違う連中が一時期結構な勢いで浮浪者を集めていたというのです。
また生活保護の受給金を狙った詐欺なのかとも思いましたがどうもそれとも違うらしい。
ところがある日ちょうどその頃居なくなっていた浮浪者の1人が帰って来たというのです。
でもどうにも様子がおかしくまともに喋ることさえ出来なかったというのです。
困った仲間達がなんとか救急車を呼んで乗せたのですがすぐに脱走して居なくなってしまいました。
その当時うちによく顔を出していた自称整理屋で元岸総理大臣の秘書だったというおじさんが公園にいた浮浪者達と仲が良く彼も心配になったようで
色々調べてもらっているうちにとても奇妙なな情報が入ってきました。
それによると
暴対法などの締め付けでそれまでのようなシノギが出来なくなった組が共同で資金を出して大型の古い輸送船を購入。
それを治外法権な海に浮かべてそこで麻薬を作っていると言うのです。
そこでの作業員を確保するのに浮浪者が一番都合が良いらしく半年位の契約で舟に乗せるのですが結局中で麻薬中毒になるのでそれは近隣の港に放置してしまうのだそうです。
一応契約通りの金を持たせるのだけど既に常人の意識を失った状態では結局どうにもならず行き倒れとなり足がつかないという。
まるで映画のような話だけどなんとなく色々と符号が合致するのであながちデマだとも思えません。
でもね、全部を信じるわけではないけどこれに近しい事はあるのだと思いますよ。
まだ公園にいるうちは色々な目があるからある意味安全だったけど所在が掴めない状況というのはなにがあってもわからないという事でもあるのですから。
今回ちゃんとあたってみて前からの知り合いで所在を掴めたのは半分も居なかったんです。
あとはどこでどうしているのやら、生きているのか死んでしまったのかさえわかりません。
行政はどうしてこうも中途半端な事をするんでしょうね。
本当に腹立たしいですよ。
おじさんは最後にそう言って深くため息をついていました。
この話はもう15年くらい前の話になります。
今となってはこれが真実かどうかはわかりません。
今では上野公園は夜間の出入りが禁止されていてベンチも寝転がれないようになっていて座れそうな敷石にもロープがかけられていて休めなくなっています。
それでも昼間には浮浪者が出入りしていますがもう知った顔は殆ど見る事がありません。
たまにあの人死んだんだよ?
知ってる?
なんて話を聞くばかりでなんだかとても遠くなったあの日々を思いだすのです。





浮浪者な都市伝説

かつて上野公園は浮浪者のパラダイスでした。
公園のそこかしこにブルーシートと廃材や段ボールで巧みに作られた小屋?があちこちにあり場所によっては集落のようになっているところさえありました。
不忍池周辺にも公園とその裏にある建築物の曖昧な場所に結構な数の小屋が集まっていてコミュニティのように存在していました。
結果として彼等の小屋のまえに骨董市のテントが並んだわけなのですがトラブルはありませんでした。
それはそこに住み着いた浮浪者の人達がそれなりに気を遣って骨董市の周りのゴミ掃除をしたり特に頼んだわけでもないのに夜間防犯をかねて見回りをしてくれていたからなのです。
それでまあこちらとしてもお礼代わりのワンカップや食事を奢ったりとかしていたのでそれなりとはいえ友好関係にあったのです。
まあ確かに公園を占拠するのは良い事ではありません。
でも職や家庭を失い行き場のない人達に対しての救済策も救済のためのNPOも当時はなくて新興キリスト教の団体が日曜日になると炊き出しをする程度だったのです。
人権問題もあるので公園も強制的に追い出す事は出来ず、おバカでクソな高校生が襲撃をかけて来たりする事もあった時期なのでかたまって集落のように暮らすのは身を守る為でもあったのです。
でも石原都政になって状況は一変します。
新宿の通路にいた浮浪者達がまず追い出されてそれはやがて各地の公園にも飛び火して上野公園でも追い出しが始まりました。
行き場を失った浮浪者達は都が用意したアパートなどに収容されましたが六畳一間に五人も六人も詰め込まれ元々がコミュニケーションがうまく取れない人達なのにやっていける筈もありません。
しばらくするとまた公園に戻ってきてそれをまたアパートに収容するといったようなことが続いていました。
そしてしばらくしてヤクザがこれをシノギにしはじめます。
元々公園には地回りというヤクザの営業みたいな連中が徘徊していて浮浪者にチケットを取る為に並ばせたり、あるいは土方みたいな仕事を割り振っていたものが六人とか、八人まとめて生活保護をとりそのお金で安アパートを借りて都政がやったように本人達の意志とかとはかかわりなくそのアパートに押し込め本来なら本人に支給されるはずの生活保護金をアパート代としてあらかたを掠め取っていたのです。
都が用意したアパートと違ってそこはそう簡単には脱出出来ません。
基本的にはタコ部屋で強制労働もセットになっているからです。
それでも半年も経つ頃にはこのカラクリも行政の知る所となり認可が降りなくなったのと思ったよりもみいりが少なく浮浪者も身の危険を感じて甘言に乗らなくなった事から一年と持たず頓挫してしまったようです。

続く
今から40年ほど前の話です。
まだバブル期の少し前くらいでしたが家を失い浮浪者となった人達が街の片隅に散見されるようになりはじめた頃でした。
ちょうどその頃にフリーマーケットが始まり当時は敷居の高かった骨董市に出る事が出来なくてよくフリーマーケットに出店していたのです。
そのフリーマーケットの企画で横浜の地下コンコースで月末一週間位のフリーマーケットが始まってそこに参加していました。
横浜の地下鉄の地下一階の広い通路を使ったフリマで良くこんな条件の良いところがとれたものだと感心したのですがすぐにその理由がわかりました。
その一帯は浮浪者達の半ば住居と化していてその排除のために私達が呼ばれたのです。
元々フリマのスタッフは定時にならないと来ないし逆に出店者は搬入など準備があるので早朝から来るものなのです。
で来てみたら自分が出店する場所には浮浪者が寝ているという事態に遭遇し私達が移動してくれるようにお願いするという事になるわけです。
まあ
地下鉄側から言われたのは元々は人通りも少なく物騒なので活性化を考えての事なのでという理由でしたが行き場のない人達の寝ぐらを一週間も奪うのは心苦しいのもあるしそもそも素直に退去してくれるのかというのも不安でした。
でも理由を説明してキチンとお願いすると
いいよ、いいよ、あんた達も仕事なんだし夜は何処かその辺で寝るからさ、と
場所を開けてくれたのでした。
でも出店者全員がそういう対応をする人ばかりでもなく罵声を浴びせる出店者もいてその人のお店にはある日ウンコがしてありましたね。
まあ元々その出店者は色々問題の多い人であちこちでトラブルを起こす人でしたからまあ自業自得だなと。
その頃はまだ牧歌的というか、迷惑に感じる人達もいましたが概ね社会の歪みによる仕方ない事象としても黙認するという方向でした。
ですから地下鉄の方も自分達では積極的に動かず私達を使って自然に排除できる方向を目指したのだと思います。
でも結局はなんとなく浮浪者も気を遣って私の出る場所を前もって掃除してくれたり私もお礼がてら差し入れを入れたりするような関係になったのであまり地下鉄側の思惑道理にはならなかったようです。
ちょうどこの時期に上野骨董市にも出店していたのですがそこでの浮浪者事情はまた少し違ったものでした。
続く(多分)
今から40年ほど前の話です。
まだバブル期の少し前くらいでしたが家を失い浮浪者となった人達が街の片隅に散見されるようになりはじめた頃でした。
ちょうどその頃にフリーマーケットが始まり当時は敷居の高かった骨董市に出る事が出来なくてよくフリーマーケットに出店していたのです。
そのフリーマーケットの企画で横浜の地下コンコースで月末一週間位のマーケットが始まってそこに参加していました。
横浜の地下鉄の地下一階の広い通路を使ったフリマで良くこんな条件の良いところがとれたものだと感心したのですがすぐにその理由がわかりました。
その一帯は浮浪者達の半ば住居と化していてその排除のために私達が使われたのです。
元々フリマのスタッフは定時にならないと来ないし逆に出店者は搬入など準備があるので早朝から来るものなのです。
で来てみたら自分が出店する場所には浮浪者が寝ているという事態に遭遇し私達が移動してくれるようにお願いするという事になるわけです。
まあ
地下鉄側から言われたのは元々は人通りも少なく物騒なので活性化を考えての事なのでという理由でしたが行き場のない人達の寝ぐらを一週間も奪うのは心苦しいのもあるしそもそも素直に退去してくれるのかというのも不安でした。
でも理由を説明してキチンとお願いすると
いいよ、いいよ、あんた達も仕事なんだし夜は何処かその辺で寝るからさ、と
場所を開けてくれたのでした。
でも出店者全員がそういう対応をする人ばかりでもなく罵声を浴びせる出店者もいてその人のお店にはある日ウンコがしてありましたね。
まあ元々その出店者は色々問題の多い人であちこちでトラブルを起こす人でしたからまあ自業自得だなと。
その頃はまだ牧歌的というか、迷惑に感じる人達もいましたが概ね社会の歪みによる仕方ない事象としても黙認するという方向でした。
ですから地下鉄の方も自分達では積極的に動かず私達を使って自然に排除できる方向を目指したのだと思います。
でも結局はなんとなく浮浪者も気を遣って私の出る場所を前もって掃除してくれたり私もお礼がてら差し入れを入れたりするような関係になったのであまり地下鉄側の思惑道理にはならなかったようです。
ちょうどこの時期に上野骨董市にも出店していたのですがそこでの浮浪者事情はまた少し違ったものでした。
続く(多分)
因みに古物業界では私は地味な方です。
この業界濃い人しかいません。
良くも悪くも濃い人ばかりです。
私など所詮子ウサギレベルにすぎません。
恵比寿様と遜色ない爺様とか信楽焼の狸がそのまま歩いてるようなオヤジとか、車を運転しなかったら熊と間違えられても仕方がないおっちゃんとか、女性業者も基本的には濃厚な人が多くどこでどういう人生を歩んだらこんなことになるんだというような人達ばかりなのです。
確かにそれから考えれば作家さんや舞踏家、役者さんはまだわかりやすい存在と言えるでしょう。
古道具屋になるにあたって最初の関門は仕入れをどうするかです。
それには交換市場という買い出し業者さんたちが荷物を持ち寄りそれを競りにかけて売買するところがあるのですがそれすらそう簡単には入れてもらえませんでした。(今は民主化がすすみだいぶ入りやすくなっています)
特に私が業界に参入した40年前にはまだまだ敷居が高く誰の弟子でもなく特に古物業者に縁故知人が無い身の上ではまず入れてもらえなかったものなのです。
そこをなんとか鈴木さん(つげ義春さんの無能の人に一コマ出演)にお願いして当時町田の方にあった市場に入れてもらったのです。
でも最初は女性が受け入れてもらいやすいというので元嫁に行ってもらいました。
帰って来た元嫁は興奮して「狸親父ばっかりやったでぇ〜」というので次の回に行って見たところ本当に見事な狸親父ばかりで盆に並んだ商品にいちいちケチをつけて歩いています。
それがいざ競りが始まると散々ケチをつけた商品にガンガン声をかけるのです。
なんなの?このヒトタチ。。
あまりの迫力に押されてほぼ何も買えずに帰る日が続きましたっけ。。
因みに今通っている御殿場の市場はこの最初に行った市場が移動して未だに存続しているのです。
当時からまだ来ている狸親父もだいぶ減りましたがまだ元気で商品に難癖つけています。
などとこんな話を書いているときに大先輩の訃報が入りました。
大変お世話になっていた方でもありかなり動揺しましたが連絡をくれた業者さんと小一時間くらい話をしてようやく落ち着きました。
この中で最近の若い業者さんはなんだかスッキリしていますよねぇ、また名物オヤジが一人減って寂しくなりましたねぇ、という話になり電話が切れました。
でもね、ウチでまだ一年未満の修行中の弟子が
いやーこの世界の人っていわゆるイケメンが1人も居ませんよねー、顔が良いとか悪いとかじゃなくってスッキリとした人がいませよねー、みなくせもの臭プンプンですよねーと話していたのを思いだしたのです。
そうか、
あの頃はウサギだったけど私も今は立派な狸オヤジになれたんですね。
きっと今頃は閻魔様の前で堂々とシラをきり通しているだろう大先輩。
貴方のような立派な狸オヤジを目指しこれからも新人業者さん達に煙たがれたいと思います。
あの世での買い出し頑張ってください!

上野骨董市に最初に出たのは20代の後半でした。
その頃お母さんに手を引かれてやってきたハナタレ小僧が結婚して子供が出来てマンションの支払いに追われているんだから このドクターバッグを半額にしてちょーだい と宣うようになりまさに光陰矢の如しな時間がここで流れてしまったようなのです。
現在上野骨董市に出店されているお店で一番新参だったお店だってもう10年以上になります。(15年ぶりに新規業者さんを受け入れる事になり今年のお正月からとても若い業者さんが入ってくれました)
雨の日も風の日も台風がきたって一緒にこの場所で頑張って来た大切な仲間なのです。
一番古くから居るお店だと40年近く一緒にお店を出している事になります。
最初の頃はテントなんてなかったし公園も整備されていなかったから雨が降り始めるとあたりは泥沼とかし これじゃあ営業出来ないしとシートをかけて帰ったら夜のうちに池の水が溢れて朝シートを開けてみたら商品が水浸しになっていてトランクにザリガニが入っていたなんてこともありましたっけ。。
一時期はアラブな人達のたまり場と化し無制限テレカを売りまくり公園の裏手で羊肉焼いて売ってたりなんてこともありましたし。
ここの役員を担当して30年が経過しましたがその間に死体を6回は見ているし上野って実に侮れない場所であることを思い知らされております。
それでもあちこちでお店出して上野ほど面白い場所はありません。
人が濃いというか アクが強いというか良いも悪いも乗り越えて上野に集まる人達って基本的に一筋縄でいかないって人が多いのです。
他の会場では考えられないものが堂々と売れて行くし他所の会場では見向きもされないものが通りがかりのお爺ちゃんお婆ちゃんに大人気だったり。
ウチの業者さん達に比較的柔軟な考え方の人が多いのも日々そういったお客様の要望に応える事で生き延びて来たからなのかもしれません。
昔から居る業者さんだと現在一番若い人でも還暦を過ぎて一番上だと上が75歳で でも皆同じ条件で出店しているのです。
最盛期では35店出店していたお店も現在は10店前後となり夏祭りには一緒に出店していた楽焼き屋さんも鈴虫屋さんも植木屋さんも今は居なくなったからすっかりさびしくなってしまいました。
まぁ これだけ過酷な出店条件はそうそうないし上野公園もかつて程人が歩かなくなったこともありで商売も大変になってきましたが続けられる限りは続けようと思っています。
コロナでしばらくまともに骨董市が開けませんがなんとかまた復活したいと出店者一同そう願っています。
携帯電話
基本的に古道具屋さんて世間から一歩遅れてます。
CDが出始めた頃はCDとDCがひっくり返ってDCプレーヤーなんて言ってたしAKB48が有名になり始めた頃は秋葉原の片隅でロシア人が機関銃売りさばいているなんてとんでもデマになっていたこともありました。
携帯電話も意外と普及が遅くて(基本的に頭が固くて使えないからだけど)なんとなく皆が使うようになったのってここ4〜5年前位からです。
で、前述の困ったオッサンなのですが皆に薦められてようやく携帯電話を手にいれたのですが使い方が今ひとつわかりません。
ある日ウチに来て「メールがね、来ないんだよね、なんでこないのかな?」
「え?メールの設定とかしているの?」
「出来ないからやって欲しいんだよねぇ メール来るようにしてほしいんだよ。」
このおっさん兎に角なんでも人頼みです
まぁ でもそのくらいなら良いかと 携帯電話を預かって設定を始めました。
ついでに電話帳の登録をチェックしてみたら私の名前は「象」て登録されていたのでとりあえず「王子様」にしておいてメールもちゃんと設定し携帯電話を返しました。
メールが何時来るか楽しみにしているようなので早速
横山大観名義で「こんにちは 横山大観です。聞くところによると私の贋物を販売しているようですが迷惑なのでやめて下さいね。」と出してみました。
返事が来ないなと思って様子を見に行ったら店の角の椅子に暗い顔して座っています。
「どうしたの?メール来た?」
て聞いたら
「いや 来たんだけどな、この前大観の掛け軸贋物売ったのバレたみたいでさ、どうしよう?」
本当に贋物売ってたんかい!!
それからちょっと経って聞きたい事があったので電話をしたのですがどこか様子がおかしい。
いつもなら横柄な態度で電話に出る人間が妙に丁寧です。
「あ あの どちらの方で? いったいどういったご用件でしょうか?」
「いや どうしたの?マンタムだけど?」
「え?え?すみません、聞き取れませんでした、どちらの王子様でしょうか?」
それでようやくこの前私の名前を王子様で入力していたのを思い出しました。
あとで聞いたらいきなり王子様と出たので一体どこのやんごとなき方から電話があったのかと相当焦っていたものらしい。
携帯電話の名前登録も人頼みだったので名前が表示されるのは携帯電話が判断して出していると思い込んでいたんですね。
だから肩書きも出る物だと理解していたようです。
まぁ それからはこのオッサンが深夜ハダカで公園のガードマンを追いかけ回したりして(夏の骨董市の期間中公園の中で車中泊していてハダカでうろつき回っているところをガードマンに注意され怒ったらしい)私を困らせたら(朝から公園事務所に行って散々謝って始末書書かされました) こんにちは 町田税務署です 税金があと200万円足りません なんてメールを出してあげたりするようになりましたね。

糖尿病を最初に認識したのは上野骨董市に来ていた業者さんが緊急入院したときでした。
この業者さんもともととても困ったおっちゃんで骨董市の役員としての立場からみれば結構迷惑な業者さんでした。
それでもかれこれ30年近くは同じ市に店を並べていたのだから最初に会った頃はまだ40代だったんですね。
それが60歳手前位からえらく太り始め、ある深夜突然今迄経験した事が無い腹痛に襲われたのだそうです。
救急車を呼んで病院に行ったら これはあまりに急激に太ったのでお腹の皮がついていけなくて皮が引っぱられて痛かったんですね そのうち慣れます と言われて鎮痛剤と軟膏渡されて帰されたそうです。
普通ならそこで反省してダイエットとか初めるものだと思うのですが彼は更に田舎から好物の塩羊羹を箱ごと送ってもらい夏の上野骨董市で両手に1本ずつもって交互に齧りながら歩いてましたね。
当然ですがその報いはやってきてその夏の骨董市が終了して間もない夜突然足が痛くなって歩けなくなり救急車に乗って病院に行ったら血糖値400超えていてこのままだと足を切らなきゃいけないって医者に宣告されてしまいました。
ウチに早朝電話して来て お願いだから来て欲しいという 慌てて行ってみたら 「マンタム あの医者が俺の足を斬るって言うんだよ 止めてくれよ〜〜」いや、そんなこと言われても・・・・。
でもしょうがないから医者とあって仕事の事もあるので出来るだけ切らない方向でとは話しておきました。
結局足は斬らないですみ その時点では他にも特に問題がないということで退院してきましたがその後何度も血管の病気や手術で入退院を繰り返していました。
70歳を超えてからは自分であまり動けなくなり人を使っていましたがもともと性格的に問題が多く年を取ってからは商売もうまく行かなくなりお金も回らなくなり今はジリ貧なようです。
まだ元気は元気なようなので顔を見に行きたいとは思うのですが気に入らない事は全部人のせいにするという困ったオッちゃんで上野骨董市辞めたのも私のせいにして悪口を言いまくっているというのです。
まあそれでなんとなく足が遠のいているのですが。
骨董市に来る不思議なお客様
平日の午前中にふらりとあらわれそのまま夕方くらい迄なんだかんだと話しつつ骨董市にほぼ毎日やってくるってオジさん達が何人かいるものです。
身なりはスーツとかではなく でもお洒落とは言いがたいファッションで。
年齢も40代から60代といったところでなぜこんな時間帯にいい大人が毎日ブラブラできるのかと骨董市に出始めた当初は全くナゾでした。
彼らはお気に入りの店に毎日ほぼ決まった時簡に現れてそこの店主に缶コーヒーとかを差し入れ 商品をながめいじりながら一日骨董市をブラブラしているのです。
たまに買ってもくれるのですがそう高いものではなくおつきあいでといった感がありありしています。
それから延々と店主と話し込んだりしているのですがまぁ趣味の骨董のはなしだったり消費税の話だったりと他愛の無いものが多く店主ともプライベートでの付き合いはなさそうなのです。
最初の頃はこれが骨董の通人というものかと思っていたのですがやがてウチの店にも来るようになるとそれなりに迷惑だけど追い返す程でもない存在なのです。
でもある時会話の流れから彼らの殆どが不動産で生きている人達で大半の仕事は不動産屋まかせで特にやることのない人達だというのを理解しました。
つまり親が不動産を持っていて特に働かなくても生きて行けるので社会に出る事無く中年になってしまった困ったオジさん達だったのです。
彼らの多くは結婚すらしたことがなく友達もいないので昼間から毎日やっている骨董市なんていうのは時間をつぶすには絶好の場所だったんですね。
しかも若い女性の店員がいるお店なんてのは理想郷だったらしくウチなんかは何人もそういうオジさんが通って来てくれるようになりました。
まぁすこしもありがたくはないのですが。
なかには社会的経験と女性経験の無さからフィリピンパブのおねえさんに騙されて身ぐるみ剥がれそうになってたオジさんなんてのもいて
見かねて助けてあげたこともありました。
そのおねえさんは18歳と言う売り込みでしたが本国に行ったら子供が3人も居て家族へのお土産として100万円程現金を要求されたと言うのに結婚する気まんまんで帰ってきたので 結婚したら保険をしっかりかけられて1年たったら殺されてなにもかもを盗られるよ と警告したらすでに彼女名義の保険に入れられていたのでした。
はたからみれば不動産で生きて行けるって良いようにみえますがその財産を守る為には相応の努力が必要ですしその庇護下で年を取ると言う事で社会性を喪失してしまう人達もいると言うのは惨い話だなぁとも思うのです。
ウチに通って来ているオジさん達は皆70代にさしかかっていますが皆独身で親から受け継いだ不動産で生活しています。
最近は年をとったからかあまり骨董市にも顔を出さなくなったけど時々なら気にもなるから遊びに来てどうでもいい話を聞きたいとも思うのです。
上野の不忍池のそばにある映画館はいわゆるハッテン場というもので男性同性愛者の出会いの場所なのです。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BA%E5%B1%95%E5%A0%B4
そのせいか不忍池近辺には男娼が多くいてその為のポン引きもいます。
基本的には夕方から暗くなってからかなり派手目な女装で公園のベンチに座っていたり適当な男性に声をかけたり骨董市をひやかしていたりするのです。
でも高齢者が多いしそれ故からか厚化粧と過激な攻めのファッションが正直に言ってセクシーを通り越して妖怪になっています。
こんなのでよくお客様が取れるものだと感心して失礼を承知で聞いてみたら
「なに、酔っ払ってワケ分からなくなってるオヤジをムリヤリホテルに連れ込むのよ」
「だってその時点で男でしかもお爺さんってバレるじゃないですか?」
「失礼ねーお爺さんは余計だわよ、相手はベロンベロンなんだから暗けりゃ気がつかないわよ、で、手と口でちゃちゃっとすませたらお財布からお代金もらってそのまま帰るの」
「それ、半ば泥棒とか、置引きがセットになってませんか?」
「だからやる事ちゃんとやってるからそれでいいのよ!」
  
でもこの話ももう20年以上は前の話になってしまいました。
コロナの少し前までは映画館から公園にはいる通路にあの頃とは違う少し面倒な人達がたむろしてましたけどこの前行ったら彼等の溜まり場にロープが引いてあって入れなくなってましたね。
何度も警察を呼ぶような事になっていたのでそれはそれで良かったとは思いますがその面倒な連中たとも絡んではいた男娼達はどうなったのでしょう?
あの頃はポン引きと男娼達がそこにいたけど警察を呼ばれてしまうような騒ぎを起こす事はまずありませんでした。
それも時代の変化のような気がします。
彼らは間違えても誰にも迷惑をかけるようなことはなくひっそりとしていました。

でも本当にたまにだけど売り上げがない男娼はそのポン引きが見せしめみたいに殴ってた事があります。
なんだか辛いなあと思って次の日に声をかけたら
「いや、大丈夫なのよ、あれはあれで一種の愛情表現なのよ、本当に売り上げないと幾らか掴ませてくれるしね、私たちは基本持ちつ持たれつなんだから」
この後誘われましたが丁寧にお断りさせていただきました。
そしたら出店していた業者さんを口説きに来たそうです。
まあでもそれが彼等の仕事なんですね。


残念ながら今年も桜祭り骨董市は中止となりました。
とても残念ですが都の蔓延防止延長によるものなのでこれには従う事になりました。
それで少し上野らしい思い出を。

この時期の上野骨董市は一年を通じて一番人出が多い時期でもあり一年に一度の掻き入れどきでもあります。
この時期ははじめてというお客様も多いのですがいつも来てくれるおじいちゃんがいつものように顔を出してくれます。
痩せてて小柄である時歳を聞いたらあんたは野暮ねえ、と言いながらも80は超えているのよ、と教えてくれました。
ウチでは香水とかちょっとしたアクセサリーなんかの小物を嬉しそうに買っていきます。
時々50台の女性を連れて現れますが奥様なんだそうです。
もう髪は真っ白であんまり残っていないのですがそれを後ろに束ねてハンチングを被りピンクのチョッキを着て現れるお洒落なおじいちゃんなのです。
でも仕事中はグリーンのオカッパのカツラをつけ少し短めのピンクのタイトなスカートとフリフリの白いシャツにカーディガンを羽織って現れておはよう!って声をかけてくれます。
彼の仕事は所謂男娼であって彼は長い間ずっとそうやって生きてきたのです。
それなりにお得意様がいるようでその人達から連絡があるとお洒落をして不忍池の畔りで逢引するのだそうです。
もう結構長い付き合いになるのですが普段の彼と男娼になった彼を同一人物と認識するのには4年ほどかかりました。
見た目での年齢差は30歳。
彼によれば男女の違いなど些細な事だそうです。
今の奥様は女性ですがパートナーが男性である事も普通だったし性差での問題は特にないそうです。
浮気すれば同じように修羅場になるからねぇと遠い目をして過去を眺めてましたっけ。。
このセリフを散りゆく桜の下で言われたときは流石は年の功だわって思いました。

最近中国の痰壺が欧米でフルーツバスケットとして人気のアイテムになっているそうです。
これってかつて仏壇がオリエンタルなワインセラーとしてヨーロッパに輸出されていたのと似ています。
今から20年以上も前だけどドイツの古物屋に仏壇をワインセラーもしくは小物入れとして売り付けていた骨董屋さんがいたのですがある時ドイツの古物屋さんから国際電話があり送られてきた仏壇を地方のレストランが買って行ったのだけど夜な夜なそこから白い服を着た女性が出現するという。
ヤバい!返品か?と思ったらそれで評判になって観光バスまで止まるようになったのでそういうのがあったらまた送って欲しいという依頼だったのです。
でもそんな事言われてもなあ、ととりあえず仏壇から外して段ボール箱に詰め込んであった位牌をまとめて送りつけてみたらその位牌の関係者だったのか白い服を着た女性はその後現れなくなったそうです。
ちなみにその罰当たりな骨董屋はその後しばらくして倒産してしまいました。
まあ
伊万里の便器を日本庭園で使っていた道具だとか江戸時代の尿瓶を酒器だと言ってフランス大使館の書記官に売りつける古道具屋さんもいたので皆様もご注意下さいませ。
これに近いものでは清朝には高貴な女性が口の広い花瓶みたいなものを夜間の尿瓶として使っていたと聞いた事があります。
これはまだ確認出来ていませんがどうなんでしょう?
古道具屋と店員さんについて書くつもりで大きく脱線しました。
長いです。。
古道具屋になってすでに40年の歳月が経過しました。
まだ他の仕事の掛け持ち期間を考えるとあと3年ほど増えるのですが。
最初の頃は当時まだ存在したヨメがいて彼女との二人三脚でした。
でも古道具って個々の趣味やら感覚やらがもろに反映される世界でもありすぐにうまくいかなくなって2年もしないうちに私一人でやるようになってしまったのです。
それからは色々な人たちに手伝ってもらいながら今日までなんとか続けてこれました。
おそらく3桁にのぼるあらゆる人たちに助けてもらってでもうまくいかない人もいて何故か逆恨みされてネガティブキャンペーンを貼られたこともありましたけど(1名のみです、そのあとしっかりすり寄って来たけど)まずは感謝あるのみです。
そもそも個人事業者であるし売り上げも全く貧相なお店では正社員など求めるべくもありません。
お店を開いていてなんとなくよく来てくれるお客様が見かねてお弁当などを買って来てくれるうちにお店を手伝ってくれるようになり気がついたら店員みたいな存在になっていたという自然発生的な店員が殆どでくるものは拒まず去る者は追わずというような方式だったので短い人は1日でいなくなるし10年以上も手を貸してくれた人もいたりとそういういうものまで千差万別でした。
ちなみにうちの営業スタイルは骨董市などの露店形式であってお店があったこともありますがほぼ倉庫と化していてお店として営業できたのって10年近くも借りていたのにそのうちの2年程度でしたね。
一度じゃがたらの江戸アケミが勝手に店のギターでワンマンライブを始めたものの来たお客が誰もアケミを知らず狩人の曲をリクエストされてゲってなりながらも アズサ2号が〜なんて歌っていたのを覚えております。
まぁそういうお店だったのですぐに開かずの店と化してしまったのですが。
お店を手伝ってくれる人たちは千差万別ですが基本的には若い女性が多くしかも学生さんが多いので卒業となると入れ替わり新しい人になります。
そのため骨董市では誤解も多く私がしょっちゅうヨメを変えているみたいなことを他の店主に言われていたのですが最近はヨメさん?から娘さん?になりついにお孫さん?になってしまいそれはそれでどうなんだろう?とやや悩んでおります。
とはいえ定着すれば2年とか3年とかは手伝ってもらえるしその間にもう一人雇えるだけの余裕もないので基本的にはメインで手伝ってもらえる人が一人か二人いてお店を作るときとか人手が必要な時の人員で三人から四人程度の応援部隊がいるという感じですがやはり女性が中心になっています。
かつては古道具屋としてのうちの店そのものに興味を示して入ってくる人が多くそれに応えるようにあくまでも分かる範囲ですが古物の知識や歴史について教えることもしていました。
中にはそれで興味を持って仕事にした人もいるのです。
最近はマンタムという作家としての興味から来る人も増えて来ていて作家としての手伝いをしてもらいながら美術世界での人間関係の構築を目指しインスターレーションなどの勉強に来ながら古道具屋も手伝ってくれているという学生さんもいるのです。
古道具屋と作家って開きがあるように見えるかもですが私にとっては同じ地平で違った風景を見るようなものなので手伝ってくれる人たちも違和感なく手を貸してくれているようです。
まぁでも3桁に及ぶ人間の相手をして来て残ってくれた人は3割程度でしょうか?
これが会社としてやっていたことだったら果たして何人残ってくれていたことか。
以前友人の職人さんと話していたら 
いやー30年くらいやっていて3桁はとっくに超えるくらい色々な人間を雇って来たけど結局ずっと続いているのは一人だけだよ、能力ないのはすぐ辞めちゃうし下手に力があると独立しちゃうしねー人を使うって本当に難しいよ。。
て言われてなるほどなーと納得したのを思い出します。
自営業って本当に難しいものなのです。
会社とかって大きな会社になればなるほど人間の受け皿として機能しているところがあって与えられた仕事も過去からの膨大な検証によってある一定の能力があればこなせる範囲内のものであり人間関係とかそりゃ色々軋轢はあるでしょうが耐えればなんとかこなせるものなのです。
私たちの仕事には上限というものがなく結果だけが全てです。
要は自分で絵がかけないようでは先に進むことすらできない業種でもあるしそれができなければ独立などできないし独立ができないということはずっと店主の手伝いということでもあるのです。
よく大手の会社の課長、部長まで行った方が色々な事情で退職され趣味で集めていた骨董を仕事にするべく参入されて来ることがあるのですがほとんどの場合は1年持たずに辞めていきます。
与えられたテーマを確実にこなせばいいという業務内容では残念ながら通用する世界ではないからです。
彼らからすればきっと全てがハプニングの連続で同僚(骨董市で隣に店を出している汚れたオジさん)とかに早朝から飲酒を強要されバクチに付き合わされ挙句にお宝の骨董品の売れ筋をあらかた買い荒らされしかも不良在庫を言葉巧みに売りつけられ結果店は売れなくなって場所代も払えないなんてことになるのだからそりゃ無理だろうというものです。
そういう人たちの世話を散々して来ましたけど会社で見える世界の限界があることを思い知らされます。
多分彼らが読み解こうとするデーターシートには人間なんて書ききれないんでしょうね。
私たちが相手にしているのは人間の欲望そのものでありそれは何をやっても満たされない欲求であり感情でもあるのです。
実は骨董品ってそれを代弁するものであり私たちが商っているのは人間の本質にある何かなんだと私は考えているのです。
34年もこの仕事をしていて未だにそれがなんであるかを明確には言えないのですが。
3桁に及ぶ人間と関わって弟子として修行してそこから独立できたのは2名だけです。
私たち古道具屋や骨董商の世界は基本的に徒弟世界であり親子であってもその関係は変わりません。
私は個人で生きて来たしこれからも個人でやっていくつもりなのでそういう感覚がやりやすいのです。
徒党を組んでとか集団とかは本当に苦手なので個人業種の頂点だと思っていた作家業は性に合うと考えていたのですが中に入って見ると結構色々な集団が群立し徒党を組んでいる人たちが多いのには驚かされました。
誘われることもありますがお手伝いはできても参加はできないなと。
だから関わった人たちも縛るつもりはないしそれぞれに勝手にやってくれればと。
その中で必要なところは協力関係を持って関わればいいかなとそのくらいいい加減な人間なんです、私って。
ということですので今後もよろしくお願いします!
雪の日の思い出
露店形式の骨董市をやっていてやはり困るのは天変地異です。
まあそこまで大袈裟ではなくとも雨も強風も困りますが雪はやはり中々に厄介な存在なのです。
まずやめ時がむずかしい、はらはらと雪が落ちてくるというのはそれなりに風情もあるし骨董品との相性も良さげです。
ああ初雪だ風流だねぇ、なんてお客様と景色なんぞを楽しんでいるうちにどんどん強くなり吹雪とかになったら車は出せないし下手したら遭難とかするかもしれません。
それでも大雪にやられた記憶は過去40年間の露店生活でせいぜい5回程度。
そのあたりは都内近郊を中心で活動していた事の利点なのかもしれません。
でも、それ全部覚えてます。
つまりそれだけ大変だったという事なんです。
雨や突風もそれなりに大変だけど大雪とかになると荷物を積もうにも車がスタックして会場には入れないとか入ったら今度は出られないとか役員も業者さんも上へ下への大騒ぎとなってしまうのです。
私はその時居ませんでしたがさる神奈川の海岸縁でどういうわけか冬場に開催された50軒規模の骨董市が突然の大雪に見舞われた事があったのです。
もうそれは凄い降りだったようで全くどうしようもなくとりあえず露店に出した荷物にシートをかけて業者さん達は駐車場から出す事も出来なくなった車の中で無理矢理車中泊をかましたというのだから本当に洒落になりません。
一歩間違えれば車の中で遭難していたレベルです。
上野骨董市では過去やはり大雪に見舞われそれがそのまま凍結して車が出せなくなり業者さんが一丸となってタイヤが通るところだけ轍みたく凍結した氷を粉砕して一台づつなんとか脱出した事があります。
昨日の雪は確かに凄くて午後5時頃には吹雪レベルだったけど今日のお昼過ぎにはほぼ溶けてました。
それでも地方から来ている業者さんは都内はまだなんとかなっても地元の道は(凍ってて)走れないだろうからと近所のホテルに泊まっているそうです。
私も昨日は用事があったので無理矢理帰りましたが途中の山道で何台も乗用車がスタックして動けなくなってたのみました。
こちらもギリギリだったので助けられませんでしたが。
あのあと皆さんどうしたのでしょう?

上野骨董市は40年の歴史があります。
赤ちゃんが立派なおっさんになるだけの期間なのですからそれは色々な事がありました。
その中でも今だによくわからないのが30年程まえに公園がイラン人にほぼ占拠されたようになったあの遠い日々の事なのです。
確かきっかけは代々木公園じゃなかったかと思います。
当時の代々木公園で開催されていた代々木公園フリーマーケット(主催はリサイクル運動市民の会)はとても人気があり一般の参加者だけではなくて古道具から新古品や玩具を扱う専業から半専業みたいな人達まで多種多様な人達が出店していました。
人気が高く応募しても出ることが出来ない事も普通にある事でしたが基本的には電話予約のみだったのでとにかく電話をかけまくるしかなくその為に何台も電話機を買ったんだなんて業者さんも居たくらいです。
その頃出店していた新古品で玩具を扱っていたおじさんが中々出店出来ない事に業を煮やし自分が主催して開催しようと公園に直接交渉してしまったのです。
ところが公園は本来業者さんの営業目的での出店は出来ません。
本当はそこでやめとけば良かったのですがこのオジサンは 「業者がたくさん出ているじゃないか!」と抗議してしかも写真まで撮って「こいつもこいつも業者じゃないか!」
と突っ込んでしまったのです。
当時増え続けるゴミ問題で悩んでいた東京都としてはフリーマーケットが始まった事で都内のゴミが減り年間で少なくとも1000万円分は経費が削減されたという結果が出ていたため公園はフリーマーケットにとても好意的でした。
それもあってとてもファジーでグレーゾーンにして何とか維持していたのですがこのオジサンの行動で代々木公園を含めたフリマを開催している殆どの公園が業者の出店が不可になってしまったのです。
この影響は甚大でオジサンはほぼその界隈では出入り禁止となってしまいました。
それでそのせいかどうかはわかりませんが何故か代々木公園にたむろしていたイラン人の面倒をみるようになりやがてイラン人の父と呼ばれるようになっていたのです。
まあ困っている人達の面倒を見る事自体は良いと思うのですが果たしてそれが必ずしも良い結果に繋がるのかというとそれは微妙なのかもしれません。
なんにしてもオジサンの行動で私達業者が長年かけて作り上げた代々木公園のマーケットを失ってしまったのですから。
この同時期に上野公園でもイラン人が溢れていました。
骨董市をやっている会場の入り口近辺の一番良い場所を占拠して肉を焼いて売っていたり
偽造テレフォンカードを道行く人達に売りつけています。
それが一人や二人ではない集団なので非力な古道具屋さんとしては如何ともし難い状況なのでした。
流石の地回りも見て見ぬふりだしお巡りさんも注意はするけどほぼ放置状態です。
こちらとしても通行人にテレカ売りつけようとして揉め始めたらそれを止める為に介入していましたが言葉もろくに通じないのではやれる事も限られていました。
それがある時を境に波が引くようにいなくなったのです。
今から思ってもあれはなんだったんだろうと。
でも
それから何年かは地方から来た高校生くらいの少年たちが
ここでマリファナ売ってるって聞いたんだけどどこで買えるの?
ときいてくるので
そうか、あいつらマリファナまで売っていたのか!
と皆であきれてましたね。
イランの父はその後どうなったのかはわかりません。
一時期は新聞にまで取材されていたようですが業者としてはあちこち出入り禁止になっていたみたいでしたし。
果たしてあれからどうなって今はどうしているのでしょう?
公園に文句を言いに行くまでは会場で挨拶する程度だったけど優しげで世話好きなオジサンとして認識していたのですが。
その頃の上野骨董市は年間で100日間も開催される半ば常設のような骨董市で
訪れるお客様もほぼ常連さんでした。
その中に一際変わった老人がいて彼は季節を問わず必ず軍服を着て現れるのです。
その軍服も今戦地から帰ってきたばかりのようにくたびれたもので将校のものではなく兵隊が着ているものでした。
今は靖国神社などに兵隊コスプレで現れる人達がいる様ですが今から30年近くも前でまだコスプレそのものがあまり市民権を持っていない時代です。
彼の存在は異様であり一際目を引く存在でもありました。
彼は軍歌のSP盤(戦前から戦後すぐにかけてのレコードで蓄音機でないと聞く事が出来ません)を探しに来ているのです。
何軒かのお店を回って何枚かこれはというのを見つけるとウチの店に来てかけてくれ!というので蓄音機をだしてあげるとあとは半日くらいそこにいてずっと聞いているのです。
でも、とても気難しくて怒りっぽくて他の人が話しかけたりするとあっちへ行け!お前には関係ないだろ!と怒鳴ったりするのです。
他の業者さん達は面倒なのであまり相手にしていませんでしたが私は彼が非常に興味深かったのでたまにお茶など出してあげて蓄音機を貸してあげていました。
そうすると彼なりの気遣いなのか時々絶対いらないだろうというような缶切りやこけしなんかを買ってくれたりするのです。
それでも挨拶くらいはしたけど個人的な立ち入った話をこちらからする事はありませんでした。
そう言った関係が何年も続きやがて彼が近衛連隊にいた事や外地に戦闘に出た事も聞かせてもらうようになりました。
いいか、近衛兵なんて誰でもなれるわけじゃないんだ、兵隊として優秀なのは当たり前だがやはり信頼性からも家系というのは重要なんだ、俺が近衛兵になれたのは運とかそういうのではないんだ。
帝国陸軍というのはそういうものなんだ。
と言っていたのを覚えています。
それからまた随分日が経ってようやく打ち解けて世間話もするようになったある日彼は軍服ではなく洒落た背広を着て照れ臭そうに現れたのです。
いや、今日は集まりがあってな、その帰りなんだ。
また明日くるからな。
そう言って帰ったのだけどそれからしばらく来なくて半年くらいして現れたのですがその時はジャージのようなものを着ていて喉に包帯を巻いていました。
どうしたんですか?
と聞いたらどうも喋れないらしい、それで紙とマジックを渡したら手術して声がでない、レコードはあるか?
とあったので
いつも通り蓄音機とレコードを出すとまた紙に
聞いてみてもいいか?
と書いてあったので勿論です。
ゆっくりしていってください。お茶飲みますか?
と聞いたら
喉の包帯をさしてダメという仕草をしたのであとはそばにいてぼちぼち筆談していました。
この前背広できた次の日に検診があってそこで病気なのがわかりそのまま入院して手術をうけたのだそうです。
喋れなくはなったけど一応手術は成功したと。
次に来る時には喋れるようになるからとレコードを何枚か買って帰って行きました。
それからしばらく経ってまた上野骨董市が始まった初日に喉にあてると声を出せる機械を持って現れて
ほらちゃんと喋れるだろうと笑っていました。
思えば彼が笑うのをみたのは初めてでした。
彼はアルバムと葉書を沢山持って来ていてこれでみた事を誰にも言うなよ、と言いながら見せてくれたのですがそれには美空ひばりや南伸介や往時の有名人達と並んで写っている彼のアルバムでした。
身なりもキチッとしていてただの軍隊なお爺さんではないのをようやく理解させていただきました。
これをおまえにやるよ!
これを売って金にするといい、この葉書も美空ひばりや有名人のものからのものだ。
それなりな金額にはなるだろう。
いや、でもこれはお爺さんのとても大切なものでしょう。
そんなもの貰えないし売り買いするなんて出来ません。
気持ちだけでもとても嬉しいのでそれでいいんです。
そうか?おまえは本当に欲がないな、
じゃあ欲しくなったらいつでも言ってくれ
それと今度うちに食事に来ないか?ご馳走様するよ!
あ、それは行きたいです。
じゃあ来会また来ますので都合の良いときに声を掛けてください。
と別れたきり連絡が途絶えました。
半年くらいして彼が病床につきそのまま他界したと聞きました。
私のなかでは近衛兵として生きておそらく大逆事件も経験され終わらない戦争をずっと生きて来たのではないかと勝手に想像しています。
でも最後にお洒落な背広を着て照れ臭そうに現れたときには少しだけでも戦争から離れる事が出来たのではと。
食事に行けなかったのは残念だけどあちらの世界でゆっくりと休んで貰えればと思うのです。

かれこれ40年近く上野公園でお店を出していると実に色々な人達とお知り合いになりその人の人生にも関わる事があります。
そのオーダースーツに身を包んだ当時60代のおじさんは夏でもネクタイを緩める事なく40代の秘書という女性を引き連れ上野骨董市の私のお店に現れました。
きっかけはなんだったか覚えていませんがほぼ毎日お昼過ぎになると現れてお店の椅子にどっかと座りそのまま閉店までお店にいるのが常でした。
秘書さんは他に仕事があるのかそのまま何処かに消えてしまいお店を閉める頃になると現れて2人で夕闇に消えて行くのです。
こちらから素性を聞く事はありませんでしたが毎回必ず現れてほぼ1日居るのですから会話の流れの中でかつては岸総理大臣の秘書の一人でありロッキード疑惑の時に証拠の隠滅をはかりそのまま自分も政界から引退したのだという事でした。
それ以降は政界の汚れ仕事をやるようになり簡単に言えば整理屋のような事をしていると言っていました。
嘘か本当かなど全く判断できかねる事でしたがちょうど小泉政権が誕生する3カ月程前でありまだニュースにもならなかった時に
「マンタムさんは小泉さんを総理大臣にするってどう思いますか?」
と聞かれて
「そもそも小泉ってだれ?ってレベルなのでなんとも言えないですね」
と答えたら
「そうなんですよ、3代目なのにあまり目立っていませんからね、でも自民党ではもう規定路線なんです、それで彼一人では弱いので当て馬を付けたいと思うのですがマンタムさんなら誰にしますか?」
と言われてもあまり興味もなくどうでも良かったので
「田中眞紀子なんていいんじゃないですか?」
と答えたら
「なるほど、実は私も同意見なんですよ!あ、もうこんな時間か!ちょっとこれから用事があるんで今日は帰りますね!二、三日来れないかもですがまた来ますね」
と帰って行きました。
結果その通りになったわけですがそのあと彼が「小泉の家は親子3代政界に居るのでそれだけ政界や官僚に影響力があるんですよ、特にこの国の官僚の力は絶大です、現実には政治家が官僚の顔色を伺っているといってもいい、でもこれからは変わっていきますよ!」
確かに変わったけどあまり良い方に行ったとは言えないようです。
それからしばらくして暑い夜に
「マンタムさんは反対するだろうけどいずれこの国は憲法を改正して徴兵制になりますよ、これは自民党の既定路線なんです、もう今迄みたいな土地転がしみたいな箱物政策ではもう経済が回らないんですよ、韓国みたいな徴兵制にすれば服から戦車や電子機器も全て国がお金を回して一気に経済を動かせるんですよ、別に戦争をするわけじゃない、ね?そう考えると悪くないでしょう?」
いや、なんと言われようが言いくるめられないし絶対認めませんけどね。
でもあれから20年が経過して現実になりつつあるようです。
ここまで社会が変わるなど当時は考えてもいませんでしたがもう予断を許さない状況に来ていると考えるべきでしょう。

オジサンは3年くらい骨董市に顔を出していたのですが新たに現れてやっぱり一日中お店に座っている元TBSディレクターが彼に興味を持ち取材を持ちかけたのです。
オジサンはその時は笑って誤魔化してましたがそれからしばらくして閉店間際に現れ
「急なハナシなのですが20万円ほど貸して貰えませんか?嫁に浮気がバレてカードを止められてしまったんです、でも明日から京都で整理の仕事で動かないといけない、活動資金が必要なんです、来週には帰って来れるしその時点でお金は返せますから」
20万は無かったのでとりあえず15万円貸しました。
その場で借用書を書き一応免許書で住所も確認しました。
住所は台東区になってましたね。


そのまま消えてしまったのです。
借用書の住所は存在しないものでした。

それから一年くらい経って以前そのオジサンに紹介された地回りが現れて
「あいつは何処へ行ったか知らないか?」
よくよく話を聞いてみたら彼も突然お金を貸してと言われて倍にして返すと言われて50万くらい貸したというのです。
勿論そのまま連絡もなにもないので色々調べてみたが結局足取りはつかめなかった、でもあの秘書というのは彼の女で彼女は彼をウチの店においてその間に売春していたというのです。
つまりヒモという事なのですが詐欺もやっていたようでウチの店の客を品定めしていたんじゃないかと言うのです。

さて

本当はどうだったんでしょう?
オジサンは来る度に骨董市の皆さんになにか差し入れでも買ってあげて下さいと2〜3万というお金をポンと出し、くる度に大量のドーナツなんかを買ってきてくれてました。

多分私が貸した以上のお金は使ってくれていたと思います。

ですから15万はともかくとして一体何者だったのか、今だと80歳を超えているだろうけどまた突然現れるような気がするのです。





コロナは本当に大変でした。
基本的にお店を持たずに露店形式で仕事をしている古道具屋さん達にとってその会場になる骨董市そのものが開催されないというのはそのまま死活問題に直結します。
ですから飲食業が協力金という形で補償されていたのは実に羨ましい限りでした。
確かに色々な救済制度はあったものの手続きが煩雑でとれても月に10万円前後。
固定費だけでも月にそれ以上はかかります。
それに比べて飲食への協力金は最初は6万円でそれから下がったりかなり遅れたらしていたようですがそれでも1日で4万円は出ていたわけで月にすれば120万円。
しかも感染の原因としては特に飲食が原因ではありませんでした。
要は人の出歩きを止めたいという事なのでしょうがそれならちゃんと給付金など出して国民に一カ月家に篭って貰えば良いのだけど、それはやる気すらなかったようです。
感染を広げている一番大きな要素は明らかに朝晩の満員電車なのだけどそれを認めると労災の適用になるし会社をストップして一番困るのは大企業だったりするので手近なところに責任を押し付けて目先をそらそうとしているとしか思えませんでした。
結局国民全体にはたった一回10万円給付しただけで飲食業に対しての協力金もあとから税金で回収する魂胆が透けてみえるようです。
今回のコロナ禍で撤退した古道具屋さんは結構いると思います。
再開された骨董市でもかつての賑わいは感じられません。
出店数も減ってしまったし未だ復帰出来ない骨董市も結構あるのです。
業者さんもお客様も心なしか元気がないようです。
それでも生き延びただけ大したものだと思いますがそこは古道具屋さん達のしぶとさあっての事だと思います。
さて
この後どうなるのか?
全く予断を許しませんが少なくとも以前と同じようにはならないと思います。

そう言えばコロナ前にすっかり公園の鳩達と仲良くなっていたのですが今年の夏に臨時で復活した上野骨董市で一年半ぶりに再開ししっかり覚えていてくれたのはとても嬉しかったのです。

でも

大分痩せていたけど。
最近ずっと一緒に暮らしていた猫が死んでしまいました。
享年16歳
もともと大人しい性格で
でも甘えたで家にいる時は私が仕事さえしていなければずっと膝にいるような猫でした。
かなり前の上野骨董市で確か春か5月の骨董市だったかと思いますがその頃よく骨董市に顔を出していた浮浪者がゴミ袋に詰めてゴミ捨て場に捨ててあった、自分ではどうにも出来ないから助けてやってと持ち込んで来たのです。
その時点でウチには先住猫がいたのでいずれ飼い主を探さないとな、などと思いながら引き受けたのです。
お店に来た馴染みのお客様に猫ミルクを買ってきて貰ってとりあえずミルクをあげて夕方早めにお店を閉めて家に帰りました。
そうしたら先住猫のチョビさんが連れ帰った赤ちゃん猫の声を聞いて母性が復活したのかそれとも自分の子供と誤認したのかさっさと咥えて隠れてしまいました。
もうこうなるとどうしようもなく結局朝になっても出てこないので気がかりのまま上野の骨董市に出掛けその日も早く店仕舞いして帰ってみたら疲れきって大の字で寝るチョビさんと鳴き続ける赤ちゃん猫がベッドで私を待っていました。
チョビさんの母性も今更出る筈もないお乳では流石にどうにもならず私に助けを求めていたのです。
用意しておいたミルクを赤ちゃん猫にあげてそれからは真夜中でも二時間おきにミルクをあげチョビさんがお尻を舐めて排尿させるという日々が続きました。
でも2週間もすると元気に飛び跳ねる子猫になりチョビさんは良いお母さんになってせっせと世話をしていました。
赤ちゃん猫はルリさんと名付け結局ウチの新しい家族になったのです。
色々な事があってルリさんが7歳くらいになった頃にチョビさんが行方不明になりその3年後に外の倉庫で死んでいるのが見つかりました。
もしかするとルリさんは知っていて時々会いに行っていたのかもと今は思います。
チョビさんの得意技はモグラを狩る事で私が風邪とかで寝込んでいると取って来たばかりのまだピクピク動いているモグラを枕元に置いて さ!これ食べて元気だせよ! と見守られいたのを思い出します。
この技をルリさんも教えられていたらしく一体何処で取ってくるのかやっぱり寝込むと枕元にモグラなのでした。

もう

モグラが枕元に来る事もなくなるんだね、と私の腕の中で息を引き取るルリさんをずっと抱いていました。

あれからもう一ヶ月経つけど喪失感はやはり拭い去ることは出来ないようです。

あんまり古道具や骨董市と関係なくてごめんなさい。

今度はもう少し骨董なんかに寄せて書きますね。

上野骨董市

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