古道具屋としての覚書
結構昔に受けた取材です。
古道具屋さんとか骨董市って元々荒っぽい業者さんが多かったのとお宝目当ての山師みたいなお客様も少なからず居た事もあって何気に丁々発止の世界でもありました。
でもそんなやり方ではいつまでたっても市民権なんて得られない、山賊みたいな存在になってしまうと言う事で当会の会長は当初からルールブックを作り徹底させ業界の一新を試みました。
それから20年近く経ちどの骨董市でもかつてのような荒武者な業者さん達は消えて行きましたがそれはそれで寂しいなあとかつてを知る身としては思う事もあるのです。
これは少しでも骨董や古道具や私達を知ってもらいこの世界に入って来て貰えればと取材を受けたものなのです。
良かったら読んで見てください。
https://www.housecom.jp/faq/category_town/426/
友人の絵画モデルやっている女子から助けてあげて欲しい老齢の女性作家を紹介されたのです。
癌で余命三ヶ月と医師に宣告されて自宅療養をしていたのだけど染色や装丁を手掛けていてその為彼女が50年間収集したヤマのような端切れや着物やら海外の敷物やらで三階建ての家は雑多な事物で溢れかえっていたのです。
それで同居していた義理の妹があんたが死んだらこれはみんな捨てるからと宣告され悲しくなり途方にくれているのを見兼ねて私になんとかして欲しいと相談を持ち掛けて来たのでした。
それはもう喜んでとお邪魔して弟子と二人で二台の箱バンにほぼ端切れ満載でざっと10万円を少ないけれどと渡したら弟子が
「え?そんなに出すんですか?だって殆ど捨てる事になりますよ、こんなの市場に持ってたって誰も買ってくれませんよ」
というので
「端切れと言ったって作家として50年かけて集めたものが評価出きないのなら道具屋やってる意味なんてない、こういうのを見た目だけの損得勘定で判断してたらダメなんだよ、これは彼女のこれからの家族との関係を考えればとても大切な事なんだよ、妹さんが面倒なゴミだと思ってたのが10万円になった、これが大切なんだ」
老齢の女性作家はとても喜んでくれて話していてもなんだかウマが合うのもあったし買わせてもらった雑多な品々の話も聞きたかったのもありそれから月に一度くらいのペースで彼女の家で彼女の友人達と開いていたお食事会にも参加するようになりました。
まあ私が材料を購入してリクエストされたもの作りそのモデルの彼女や私の弟子達も連れてタコ焼き焼いたりお好み焼き焼いたりしながらヨーロッパの中世をみたくてルーマニアのど田舎まで行った話や一本の棒だけで毛糸を紡ぐというやり方を見に行ったとか色とりどりな墓場の話なんかを聞かせてもらいつつ彼女の終活を手伝うようになっていたのです。
老齢の女性作家は余命三ヶ月をいつの間にか乗り越えていてしかも元気になって来て最初にお伺いした時は階段を上がる事さえ難しくて妹さんに支えられてやっとだったというのに自分で上がれるようになっていてずっとやめていた自宅でのワークショップも再開されるようになっていました。
毎月食事会を開いてその度に片付けを手伝い色々なモノを買わせて頂きましたがそれは彼女の人生の軌跡を受け取るような作業でもありました。
ルーマニアのクソ田舎にまだ残るヨーロッパの中世を見る旅を一人でしかも大半は徒歩と汽車で回るなか宿や地元の情報なんてどんな本にも載ってはいない、そう言う場合は駅長に聞くのよ、駅長クラスなら最低英語は通じるし彼等は地元の情報に通じているものなの、
まだ20台の初めで大学を出たばかりの頃父親がアフリカやインド、南アメリカでのインフラを整備する仕事に就いていてその父親の世話で一緒に世界を回っていて度胸と世渡りする愛嬌が身についたのよ!と楽しそうに話す彼女はとても死を目前に控えた人間には見えませんでした。
私の作品にもとても興味をもってくれて面白がってくれてなにか手伝えればねぇ、と。
もう気持ちだけで充分過ぎます。
その後も彼女の体調をみながらモデルの女子と連絡を取り合って大体月に一度程度食事会を開いていました。
やや微妙な緊張関係にあった義理の妹さんともなんとなく打ち解けていって最初は距離を取っていた食事会にも入ってくれるようになりました。
色々料理を作っていてその義理の妹さんが一番喜んでくれたのが焼きそばだったのはやや残念でしたがそもそも癌末期の患者が食べられるものには色々制限があって食材も限られていたのでやむないトコロがヤマなようではあったのです。でも殆どなかった食欲が甦りタコ焼きをぱくついてくれたのは嬉しかった!
余命三ヶ月はとっくに過ぎ去り予定より一年以上も経っていてそれには色々な理由があったのだけどなにより友人に恵まれ彼等が用意した良いか悪いかは別として癌に効く?という色々な食物や療法を片っ端から試していたのも功を成していたのではないかと思います。
生きている間にもう一度個展をという彼女の願いの為に友人の彫刻家が自宅の一部をギャラリーに改造してその柿落としを彼女に依頼したのです。
ちょうど私も個展の最中でしたがなんとか抜け出して彼女の個展に伺いました。
個展とはいっても付き合いのある作家の作品を箱にしたりシャツにしたりオリジナルの靴下があったり表装を担当していたり。
その染色での色使いや構成の巧みさは流石というべきものでそのセンスの良さは素晴らしいモノでした。
その感想を直接伝えたくて次の食事会になにを作ろうかと考えメールを出したのですが返信が帰ってきません。
不安が言葉にはならない不安があったけどそれはなんとなく無視していました。
でもその次の日モデルの友人から彼女が逝ったという知らせが入ったのです。
それなりに覚悟はしていましたがそれでもやっぱり辛かった。
そういう事もあるので道具屋としては距離をある程度でも取るべきなのだけどどうにも不器用でそういう事が出来ないのです。
長い長い旅だったのだろうなあと思います。
その旅の最後に彼女と逢えたのは本当に幸福だったのだなあと。
実はもう2年近くも経っているのに端切れのヤマはまだあまり手付かずなのです。開けてみるとそこには彼女の旅の歴史がそのまま閉じ込められていてまだまだ読み解くには経験が足らんよなあと思い知らされるのです。
当初三ヶ月と言われた余命を一年以上にも伸ばしましたが夜突然亡くなったそうで
お葬式は本人の希望もあり密葬となったので参加していません。
終わってからずっと闘病していた介護ベッドの横に置いてある遺影に手を合わせに行きました。
残された彼女の50年にわたる端切れの残りや色々な仕事の残骸やコレクションや普通の女子はまず着ないだろうという服も殆どウチで買い取らせて頂きました。
作品はお弟子さん達がオークション形式で持ち帰り残されたものは何点かウチにきています。
義理の妹さんとの関係は良好で結局この際だからと家のほうも少し片付けさせて頂きました。
まだウチの二階の一部屋と廊下に彼女の残した端切れと様々な事物が山積みとなったままですがぼちぼち弟子が整理しています。
残された彼女の服は弟子(多摩美卒26歳♀)が気に入って着まくっています。
義理の妹さんもそれを着て手伝いにきたのをみて喜んでました。
妹さんも一年以上に及んだ介護は大変だったと思います。今でも中々片付かない端切れのヤマを見る度に彼女の冥福を祈っているのです。
ここまで読んで頂きありがとうございました!
友は遠くなりにけり
そのおじさんの名前は未だにわかりません。
向こうも私の名字さえ知らないと思います。
それでも上野骨董市の最中には約30年に渡りほぼ毎日顔を合わせ夕方の日が落ちていく中ウチの軒先に吊るしてあるギターでアルハンブラの思い出を弾いてくれたりしていたのです。
勿論見解の相違による意見の違いなどはありましたが議論していても独自の価値観がとてもしっかりしていて話すのも楽しかったのです。
彼のお父さんはまだ都庁が移転する前に都庁の中でカメラ屋さんを営んでいたのです。
でもかなりな放蕩経営だったようで急死したあとには三千万円位の借金しか残っていなかったというのです。
まだ大学生だったのだけど結局その借金を彼が負うしかなくそれからは馬車馬のように働く日々が続いたそうです。
当時彼はまだ20ソコソコの若僧でありそのお店には給料泥棒としか言いようがない古狸達が店を好き勝手にしていてまずは彼等の首をどう切るかだけどそれも含めて彼等をよく観察するところから始めたそうです。
そうするとその給料泥棒達にもかなりな差異がありそれでも残すべき人材もいてこれは癌とか患部だよなという人たちにはそれなりの退職金を支払い出て行ってもらいました。
残したのは知識と技術を持った言わば職人さんとでも言うべき人達でした。
それまでが六人で切り盛りしていたのを自分を入れて三人に絞ったところでその四人分の給料と自分の給料を借金の返済にあてその二人から約二年で知識と技術を吸収。
技術は手に入れたので二年後に技術者を解雇。
知識の方はただ知識があるのではなく相応の年齢でカメラオヤジとの接客においては信用とマウントを取るのに不可避な人材である為最後まで残って貰っていたのだそうです。
お店の仕事は基本的には都庁で発生する全てのフィルムの現像と焼き付けだけどそれはそんなには儲けにはならなかったそうで儲けたのはカメラの修理だったそうです。
結局都庁なので調べればすぐにわかる現像や焼き付けの実費ではほぼ利益は乗せられずブラックボックスになっているカメラの修理代の方が遥かに利が良かったようです。
ちょっした不具合や使い方を理解していなくてトラブルになっているケースでも一週間は預かって これはねー なんて能書きをたれながらしっかりお金を取ったほうがカメラも大切に扱われるからと一見ぼったくりに見えながらも彼には彼なりの哲学?があったようです。
そもそも修理代は高い方が信用されるんだよ
そういうのを持ってくるのはカメラオヤジだからね ろくに分かってもいないのに余計な知識だけは満載だから これは良いカメラですねー それだけに繊細だからちょっとした事で不具合が出るんですよー 大変だったけどしっかり直しておきましたから!
でもちょっと部品とかがドイツからの取り寄せで結構かかってしまったんですよー
なんて言えばホイホイお金だすからねー
でも構わないんだ。
都庁の役人なんて公的組合に守られてろくな仕事しないでも給料だけはやたらと良いんだから!
そうこのおじさん都庁で仕事していたから彼等の仕事具合を目の前で見せつけられていてその横柄さといい加減さに(勿論全員がではないし今の都庁ではなくて1991年以前の旧都庁のオハナシです)相当ウンザリしていたらしくそういう話を散々聞かされました。
もう齢80超えで月に一度登庁するお爺さんがいたのですが彼の仕事は彼の職場ででた一月分のフィルムを現像に出しに来るだけというものでそれでしっかり給料を貰っていたとか ある事業部では年に30日くらいしか仕事がないから普段は野球に興じていたとか現像に出してくるフィルムだって私用のものがどれだけあった事か、
カメラの修理にしても戦前のライカなんか役所で使っているわけもないだろうにそれを堂々と修理に出して来て領収書を取っていく、なかには抱き合わせで持ち込んで請求はその課までなんていうのが当たり前でまかり通っていたそうです。
まあひどいもんだよ。勿論真面目に働いている役人もいるだろうけど民間に比べればこんな仕事ぶりでもクビにならない連中がいる事がそもそもおかしいんだよ。こんな連中の為に税金納めなきゃならないなんて全くふざけるな!と思うよ。
美濃部さんの頃からしか知らないけどあの頃が1番杜撰だったと思うよ。鈴木さんなんかからそれが酷すぎるという事でで幾らかはマシにはなっていたけど結局役人にいう事をきかせるにはそれなりの対応しないとというのもあるのはわかるのだけど一度特権に溺れて周りを見なくなった人間をどうにかするってそれはかなり大変な事なんだよ。
さて
今はどうなんでしょう?
ちなみに借金は10年かけてなんとか返済。
でも都庁移転の時に見事な都庁側の騙し討ちで移転後の都庁ではお店が出せず会社は事実上の倒産、彼は見事に失業者となりました。
まだまだ続くので続きはまた今度書きますね!
一昨日くらいの事なのですが最近はずっと素通りだった海ほたるに少し寄ったのです。
そうしたら海ほたる25周年という垂れ幕みたいなのが下がっていて そおか!あれからもう25年経っていたのか!
最近ウチで古物屋修行を始めたアキラさんが24歳だから彼女が産まれる前の話なんですよね?
そりゃ年も取るはずです。
私が当会の役員となり2年後くらいには副会長に就任してその頃の案件で木更津骨董市というのを担当したのです。
それは海ほたるを含むアクアラインの開通に伴いそれまでの唯一の交通手段だったフェリーが廃止される事になりこれでは木更津の町が寂れてしまうという事でたしか博報堂あたりが音頭をとった町おこしイベントみたいなのが企画されたのです。
骨董市はその中の企画のひとつでかつてのフェリー乗り場の駐車場をつかって骨董市を開催するというものでした。
とは言え木更津は遠い。
千葉も少しも近くはない。
その頃まだ千葉では骨董市なんてあまりなかったのもあって都内を中心に活動していた当会の業者さんで出てくれたのは確か15店か16店かそのくらいだったと思います。
それじゃあ会場が埋めきれないね、という事になり車ごと出店という事にしてなんとか会場を埋めて骨董市をオープンしました。
でも
午後からは天候が崩れてまず風が吹き始めます。
それが半端な風ではありませんでした。
当会は所謂運動会テントみたいなのを使っているのですがそれがいとも簡単に吹き飛ばされてしまうのです。
でもちょうど車があるしという事で車にテントを固定したのですがそれでも強風に煽られてお皿も箪笥も飛んでいきます。
まさにオズの国に飛ばされていくドロシー状態でこれはムリだよ、と撤収に入りましたが片付けも包み紙に持ってきた古新聞がバンバン飛んでいく始末で車を移動して盾にしつつなんとか片付けたのです。
でもあまりにもそこで疲弊してしまったのでじゃあ帰りはアクアラインでとなったのですが当時は確か三千円以上したような記憶があります。
しかもアクアラインの海の上ルートが強風で車が煽られてこれにも相当ビビりました。
その帰りに海ほたるに寄ったのだけどレストランとかが結構高くて素通りになりましたね。
その時のあまりの強風にここでの骨董市は開催不可能と考えアクアラインも恐ろしい強風の上に貴族とかでないと高速代払えない特権階級道路という認識となり現在の家に引っ越すまでは近寄る事さえありませんでした。
でもあれからもう25年も経っていたのですね。
何の因果か千葉のそれもアクアラインの先の住人となりかの特権階級道路も日常的に使うようになり高速代も軽だと650円と格安になっていて海ほたるもサビまくり風格もまして風速15メートル位の強風にもすっかり慣れそこそこ快適に生活しております。
まあこれも住めば都という事なのでしょうか。
これには後日談があって強風で散々だったと会長に報告したところそれまでは千葉進出を考えていた会長も他の何件かの千葉での企画が悉く振るわなかったのもあり
そうか!それならもう辞めだ!来年からは行かなくていい!
となり以降の開催は見送られた同時に当会での千葉での骨董市からは撤退する事になったのです(幕張駅前での骨董市などもあったのですが)。
それから10年ほど経ってなぜか上野のウチのお店に居着いてしまった元TBSディレクターが頼みもしないのに当会の事を調べ初めてこの木更津での町おこしイベントに辿り着きこの件を担当した博報堂関係者と知り合いだったらしく実は(当時だけど)まだ木更津では同時期に町おこしイベントが開催されていて骨董市は無断で抜けてしまったという事になっていたそうです。
そんな事とはつゆ知らずご迷惑をおかけした事をここで謝らせて頂きます。
ごめんなさい。
きっと同時の担当者は現場を仕切っていた私を会長と思っていたフシがありますので。
単にウチの会長が短気でそういう事がよく分かってない身勝手なところのあるオジサンだったのです。
私が直接事情を理解して担当していればもう少しやりようもあったのですが。。
携帯電話
基本的に古道具屋さんて世間から一歩遅れてます。
CDが出始めた頃はCDとDCがひっくり返ってDCプレーヤーなんて言ってたしAKB48が有名になり始めた頃は秋葉原の片隅でロシア人が機関銃売りさばいているなんてとんでもデマになっていたこともありました。
携帯電話も意外と普及が遅くて(基本的に頭が固くて使えないからだけど)なんとなく皆が使うようになったのってここ4〜5年前位からです。
で、前述の困ったオッサンなのですが皆に薦められてようやく携帯電話を手にいれたのですが使い方が今ひとつわかりません。
ある日ウチに来て「メールがね、来ないんだよね、なんでこないのかな?」
「え?メールの設定とかしているの?」
「出来ないからやって欲しいんだよねぇ メール来るようにしてほしいんだよ。」
このおっさん兎に角なんでも人頼みです
まぁ でもそのくらいなら良いかと 携帯電話を預かって設定を始めました。
ついでに電話帳の登録をチェックしてみたら私の名前は「象」て登録されていたのでとりあえず「王子様」にしておいてメールもちゃんと設定し携帯電話を返しました。
で
メールが何時来るか楽しみにしているようなので早速
横山大観名義で「こんにちは 横山大観です。聞くところによると私の贋物を販売しているようですが迷惑なのでやめて下さいね。」と出してみました。
返事が来ないなと思って様子を見に行ったら店の角の椅子に暗い顔して座っています。
「どうしたの?メール来た?」
て聞いたら
「いや 来たんだけどな、この前大観の掛け軸贋物売ったのバレたみたいでさ、どうしよう?」
本当に贋物売ってたんかい!!
で
それからちょっと経って聞きたい事があったので電話をしたのですがどこか様子がおかしい。
いつもなら横柄な態度で電話に出る人間が妙に丁寧です。
「あ あの どちらの方で? いったいどういったご用件でしょうか?」
「いや どうしたの?マンタムだけど?」
「え?え?すみません、聞き取れませんでした、どちらの王子様でしょうか?」
それでようやくこの前私の名前を王子様で入力していたのを思い出しました。
あとで聞いたらいきなり王子様と出たので一体どこのやんごとなき方から電話があったのかと相当焦っていたものらしい。
携帯電話の名前登録も人頼みだったので名前が表示されるのは携帯電話が判断して出していると思い込んでいたんですね。
だから肩書きも出る物だと理解していたようです。
まぁ それからはこのオッサンが深夜ハダカで公園のガードマンを追いかけ回したりして(夏の骨董市の期間中公園の中で車中泊していてハダカでうろつき回っているところをガードマンに注意され怒ったらしい)私を困らせたら(朝から公園事務所に行って散々謝って始末書書かされました) こんにちは 町田税務署です 税金があと200万円足りません なんてメールを出してあげたりするようになりましたね。
糖尿病を最初に認識したのは上野骨董市に来ていた業者さんが緊急入院したときでした。
この業者さんもともととても困ったおっちゃんで骨董市の役員としての立場からみれば結構迷惑な業者さんでした。
それでもかれこれ30年近くは同じ市に店を並べていたのだから最初に会った頃はまだ40代だったんですね。
それが60歳手前位からえらく太り始め、ある深夜突然今迄経験した事が無い腹痛に襲われたのだそうです。
救急車を呼んで病院に行ったら これはあまりに急激に太ったのでお腹の皮がついていけなくて皮が引っぱられて痛かったんですね そのうち慣れます と言われて鎮痛剤と軟膏渡されて帰されたそうです。
普通ならそこで反省してダイエットとか初めるものだと思うのですが彼は更に田舎から好物の塩羊羹を箱ごと送ってもらい夏の上野骨董市で両手に1本ずつもって交互に齧りながら歩いてましたね。
当然ですがその報いはやってきてその夏の骨董市が終了して間もない夜突然足が痛くなって歩けなくなり救急車に乗って病院に行ったら血糖値400超えていてこのままだと足を切らなきゃいけないって医者に宣告されてしまいました。
で
ウチに早朝電話して来て お願いだから来て欲しいという 慌てて行ってみたら 「マンタム あの医者が俺の足を斬るって言うんだよ 止めてくれよ〜〜」いや、そんなこと言われても・・・・。
でもしょうがないから医者とあって仕事の事もあるので出来るだけ切らない方向でとは話しておきました。
結局足は斬らないですみ その時点では他にも特に問題がないということで退院してきましたがその後何度も血管の病気や手術で入退院を繰り返していました。
70歳を超えてからは自分であまり動けなくなり人を使っていましたがもともと性格的に問題が多く年を取ってからは商売もうまく行かなくなりお金も回らなくなり今はジリ貧なようです。
まだ元気は元気なようなので顔を見に行きたいとは思うのですが気に入らない事は全部人のせいにするという困ったオッちゃんで上野骨董市辞めたのも私のせいにして悪口を言いまくっているというのです。
まあそれでなんとなく足が遠のいているのですが。
骨董市に来る不思議なお客様
平日の午前中にふらりとあらわれそのまま夕方くらい迄なんだかんだと話しつつ骨董市にほぼ毎日やってくるってオジさん達が何人かいるものです。
身なりはスーツとかではなく でもお洒落とは言いがたいファッションで。
年齢も40代から60代といったところでなぜこんな時間帯にいい大人が毎日ブラブラできるのかと骨董市に出始めた当初は全くナゾでした。
彼らはお気に入りの店に毎日ほぼ決まった時簡に現れてそこの店主に缶コーヒーとかを差し入れ 商品をながめいじりながら一日骨董市をブラブラしているのです。
たまに買ってもくれるのですがそう高いものではなくおつきあいでといった感がありありしています。
それから延々と店主と話し込んだりしているのですがまぁ趣味の骨董のはなしだったり消費税の話だったりと他愛の無いものが多く店主ともプライベートでの付き合いはなさそうなのです。
最初の頃はこれが骨董の通人というものかと思っていたのですがやがてウチの店にも来るようになるとそれなりに迷惑だけど追い返す程でもない存在なのです。
でもある時会話の流れから彼らの殆どが不動産で生きている人達で大半の仕事は不動産屋まかせで特にやることのない人達だというのを理解しました。
つまり親が不動産を持っていて特に働かなくても生きて行けるので社会に出る事無く中年になってしまった困ったオジさん達だったのです。
彼らの多くは結婚すらしたことがなく友達もいないので昼間から毎日やっている骨董市なんていうのは時間をつぶすには絶好の場所だったんですね。
しかも若い女性の店員がいるお店なんてのは理想郷だったらしくウチなんかは何人もそういうオジさんが通って来てくれるようになりました。
まぁすこしもありがたくはないのですが。
なかには社会的経験と女性経験の無さからフィリピンパブのおねえさんに騙されて身ぐるみ剥がれそうになってたオジさんなんてのもいて
見かねて助けてあげたこともありました。
そのおねえさんは18歳と言う売り込みでしたが本国に行ったら子供が3人も居て家族へのお土産として100万円程現金を要求されたと言うのに結婚する気まんまんで帰ってきたので 結婚したら保険をしっかりかけられて1年たったら殺されてなにもかもを盗られるよ と警告したらすでに彼女名義の保険に入れられていたのでした。
はたからみれば不動産で生きて行けるって良いようにみえますがその財産を守る為には相応の努力が必要ですしその庇護下で年を取ると言う事で社会性を喪失してしまう人達もいると言うのは惨い話だなぁとも思うのです。
ウチに通って来ているオジさん達は皆70代にさしかかっていますが皆独身で親から受け継いだ不動産で生活しています。
最近は年をとったからかあまり骨董市にも顔を出さなくなったけど時々なら気にもなるから遊びに来てどうでもいい話を聞きたいとも思うのです。
上野の不忍池のそばにある映画館はいわゆるハッテン場というもので男性同性愛者の出会いの場所なのです。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BA%E5%B1%95%E5%A0%B4
そのせいか不忍池近辺には男娼が多くいてその為のポン引きもいます。
基本的には夕方から暗くなってからかなり派手目な女装で公園のベンチに座っていたり適当な男性に声をかけたり骨董市をひやかしていたりするのです。
でも高齢者が多いしそれ故からか厚化粧と過激な攻めのファッションが正直に言ってセクシーを通り越して妖怪になっています。
こんなのでよくお客様が取れるものだと感心して失礼を承知で聞いてみたら
「なに、酔っ払ってワケ分からなくなってるオヤジをムリヤリホテルに連れ込むのよ」
「だってその時点で男でしかもお爺さんってバレるじゃないですか?」
「失礼ねーお爺さんは余計だわよ、相手はベロンベロンなんだから暗けりゃ気がつかないわよ、で、手と口でちゃちゃっとすませたらお財布からお代金もらってそのまま帰るの」
「それ、半ば泥棒とか、置引きがセットになってませんか?」
「だからやる事ちゃんとやってるからそれでいいのよ!」
でもこの話ももう20年以上は前の話になってしまいました。
コロナの少し前までは映画館から公園にはいる通路にあの頃とは違う少し面倒な人達がたむろしてましたけどこの前行ったら彼等の溜まり場にロープが引いてあって入れなくなってましたね。
何度も警察を呼ぶような事になっていたのでそれはそれで良かったとは思いますがその面倒な連中たとも絡んではいた男娼達はどうなったのでしょう?
あの頃はポン引きと男娼達がそこにいたけど警察を呼ばれてしまうような騒ぎを起こす事はまずありませんでした。
それも時代の変化のような気がします。
彼らは間違えても誰にも迷惑をかけるようなことはなくひっそりとしていました。
でも本当にたまにだけど売り上げがない男娼はそのポン引きが見せしめみたいに殴ってた事があります。
なんだか辛いなあと思って次の日に声をかけたら
「いや、大丈夫なのよ、あれはあれで一種の愛情表現なのよ、本当に売り上げないと幾らか掴ませてくれるしね、私たちは基本持ちつ持たれつなんだから」
で
この後誘われましたが丁寧にお断りさせていただきました。
そしたら出店していた業者さんを口説きに来たそうです。
まあでもそれが彼等の仕事なんですね。
残念ながら今年も桜祭り骨董市は中止となりました。
とても残念ですが都の蔓延防止延長によるものなのでこれには従う事になりました。
それで少し上野らしい思い出を。
この時期の上野骨董市は一年を通じて一番人出が多い時期でもあり一年に一度の掻き入れどきでもあります。
この時期ははじめてというお客様も多いのですがいつも来てくれるおじいちゃんがいつものように顔を出してくれます。
痩せてて小柄である時歳を聞いたらあんたは野暮ねえ、と言いながらも80は超えているのよ、と教えてくれました。
ウチでは香水とかちょっとしたアクセサリーなんかの小物を嬉しそうに買っていきます。
時々50台の女性を連れて現れますが奥様なんだそうです。
もう髪は真っ白であんまり残っていないのですがそれを後ろに束ねてハンチングを被りピンクのチョッキを着て現れるお洒落なおじいちゃんなのです。
でも仕事中はグリーンのオカッパのカツラをつけ少し短めのピンクのタイトなスカートとフリフリの白いシャツにカーディガンを羽織って現れておはよう!って声をかけてくれます。
彼の仕事は所謂男娼であって彼は長い間ずっとそうやって生きてきたのです。
それなりにお得意様がいるようでその人達から連絡があるとお洒落をして不忍池の畔りで逢引するのだそうです。
もう結構長い付き合いになるのですが普段の彼と男娼になった彼を同一人物と認識するのには4年ほどかかりました。
見た目での年齢差は30歳。
彼によれば男女の違いなど些細な事だそうです。
今の奥様は女性ですがパートナーが男性である事も普通だったし性差での問題は特にないそうです。
浮気すれば同じように修羅場になるからねぇと遠い目をして過去を眺めてましたっけ。。
このセリフを散りゆく桜の下で言われたときは流石は年の功だわって思いました。
最近中国の痰壺が欧米でフルーツバスケットとして人気のアイテムになっているそうです。
これってかつて仏壇がオリエンタルなワインセラーとしてヨーロッパに輸出されていたのと似ています。
今から20年以上も前だけどドイツの古物屋に仏壇をワインセラーもしくは小物入れとして売り付けていた骨董屋さんがいたのですがある時ドイツの古物屋さんから国際電話があり送られてきた仏壇を地方のレストランが買って行ったのだけど夜な夜なそこから白い服を着た女性が出現するという。
ヤバい!返品か?と思ったらそれで評判になって観光バスまで止まるようになったのでそういうのがあったらまた送って欲しいという依頼だったのです。
でもそんな事言われてもなあ、ととりあえず仏壇から外して段ボール箱に詰め込んであった位牌をまとめて送りつけてみたらその位牌の関係者だったのか白い服を着た女性はその後現れなくなったそうです。
ちなみにその罰当たりな骨董屋はその後しばらくして倒産してしまいました。
まあ
伊万里の便器を日本庭園で使っていた道具だとか江戸時代の尿瓶を酒器だと言ってフランス大使館の書記官に売りつける古道具屋さんもいたので皆様もご注意下さいませ。
これに近いものでは清朝には高貴な女性が口の広い花瓶みたいなものを夜間の尿瓶として使っていたと聞いた事があります。
これはまだ確認出来ていませんがどうなんでしょう?
古道具屋と店員さんについて書くつもりで大きく脱線しました。
長いです。。
古道具屋になってすでに40年の歳月が経過しました。
まだ他の仕事の掛け持ち期間を考えるとあと3年ほど増えるのですが。
最初の頃は当時まだ存在したヨメがいて彼女との二人三脚でした。
でも古道具って個々の趣味やら感覚やらがもろに反映される世界でもありすぐにうまくいかなくなって2年もしないうちに私一人でやるようになってしまったのです。
それからは色々な人たちに手伝ってもらいながら今日までなんとか続けてこれました。
おそらく3桁にのぼるあらゆる人たちに助けてもらってでもうまくいかない人もいて何故か逆恨みされてネガティブキャンペーンを貼られたこともありましたけど(1名のみです、そのあとしっかりすり寄って来たけど)まずは感謝あるのみです。
そもそも個人事業者であるし売り上げも全く貧相なお店では正社員など求めるべくもありません。
お店を開いていてなんとなくよく来てくれるお客様が見かねてお弁当などを買って来てくれるうちにお店を手伝ってくれるようになり気がついたら店員みたいな存在になっていたという自然発生的な店員が殆どでくるものは拒まず去る者は追わずというような方式だったので短い人は1日でいなくなるし10年以上も手を貸してくれた人もいたりとそういういうものまで千差万別でした。
ちなみにうちの営業スタイルは骨董市などの露店形式であってお店があったこともありますがほぼ倉庫と化していてお店として営業できたのって10年近くも借りていたのにそのうちの2年程度でしたね。
一度じゃがたらの江戸アケミが勝手に店のギターでワンマンライブを始めたものの来たお客が誰もアケミを知らず狩人の曲をリクエストされてゲってなりながらも アズサ2号が〜なんて歌っていたのを覚えております。
まぁそういうお店だったのですぐに開かずの店と化してしまったのですが。
お店を手伝ってくれる人たちは千差万別ですが基本的には若い女性が多くしかも学生さんが多いので卒業となると入れ替わり新しい人になります。
そのため骨董市では誤解も多く私がしょっちゅうヨメを変えているみたいなことを他の店主に言われていたのですが最近はヨメさん?から娘さん?になりついにお孫さん?になってしまいそれはそれでどうなんだろう?とやや悩んでおります。
とはいえ定着すれば2年とか3年とかは手伝ってもらえるしその間にもう一人雇えるだけの余裕もないので基本的にはメインで手伝ってもらえる人が一人か二人いてお店を作るときとか人手が必要な時の人員で三人から四人程度の応援部隊がいるという感じですがやはり女性が中心になっています。
かつては古道具屋としてのうちの店そのものに興味を示して入ってくる人が多くそれに応えるようにあくまでも分かる範囲ですが古物の知識や歴史について教えることもしていました。
中にはそれで興味を持って仕事にした人もいるのです。
最近はマンタムという作家としての興味から来る人も増えて来ていて作家としての手伝いをしてもらいながら美術世界での人間関係の構築を目指しインスターレーションなどの勉強に来ながら古道具屋も手伝ってくれているという学生さんもいるのです。
古道具屋と作家って開きがあるように見えるかもですが私にとっては同じ地平で違った風景を見るようなものなので手伝ってくれる人たちも違和感なく手を貸してくれているようです。
まぁでも3桁に及ぶ人間の相手をして来て残ってくれた人は3割程度でしょうか?
これが会社としてやっていたことだったら果たして何人残ってくれていたことか。
以前友人の職人さんと話していたら
いやー30年くらいやっていて3桁はとっくに超えるくらい色々な人間を雇って来たけど結局ずっと続いているのは一人だけだよ、能力ないのはすぐ辞めちゃうし下手に力があると独立しちゃうしねー人を使うって本当に難しいよ。。
て言われてなるほどなーと納得したのを思い出します。
自営業って本当に難しいものなのです。
会社とかって大きな会社になればなるほど人間の受け皿として機能しているところがあって与えられた仕事も過去からの膨大な検証によってある一定の能力があればこなせる範囲内のものであり人間関係とかそりゃ色々軋轢はあるでしょうが耐えればなんとかこなせるものなのです。
私たちの仕事には上限というものがなく結果だけが全てです。
要は自分で絵がかけないようでは先に進むことすらできない業種でもあるしそれができなければ独立などできないし独立ができないということはずっと店主の手伝いということでもあるのです。
よく大手の会社の課長、部長まで行った方が色々な事情で退職され趣味で集めていた骨董を仕事にするべく参入されて来ることがあるのですがほとんどの場合は1年持たずに辞めていきます。
与えられたテーマを確実にこなせばいいという業務内容では残念ながら通用する世界ではないからです。
彼らからすればきっと全てがハプニングの連続で同僚(骨董市で隣に店を出している汚れたオジさん)とかに早朝から飲酒を強要されバクチに付き合わされ挙句にお宝の骨董品の売れ筋をあらかた買い荒らされしかも不良在庫を言葉巧みに売りつけられ結果店は売れなくなって場所代も払えないなんてことになるのだからそりゃ無理だろうというものです。
そういう人たちの世話を散々して来ましたけど会社で見える世界の限界があることを思い知らされます。
多分彼らが読み解こうとするデーターシートには人間なんて書ききれないんでしょうね。
私たちが相手にしているのは人間の欲望そのものでありそれは何をやっても満たされない欲求であり感情でもあるのです。
実は骨董品ってそれを代弁するものであり私たちが商っているのは人間の本質にある何かなんだと私は考えているのです。
34年もこの仕事をしていて未だにそれがなんであるかを明確には言えないのですが。
3桁に及ぶ人間と関わって弟子として修行してそこから独立できたのは2名だけです。
私たち古道具屋や骨董商の世界は基本的に徒弟世界であり親子であってもその関係は変わりません。
私は個人で生きて来たしこれからも個人でやっていくつもりなのでそういう感覚がやりやすいのです。
徒党を組んでとか集団とかは本当に苦手なので個人業種の頂点だと思っていた作家業は性に合うと考えていたのですが中に入って見ると結構色々な集団が群立し徒党を組んでいる人たちが多いのには驚かされました。
誘われることもありますがお手伝いはできても参加はできないなと。
だから関わった人たちも縛るつもりはないしそれぞれに勝手にやってくれればと。
その中で必要なところは協力関係を持って関わればいいかなとそのくらいいい加減な人間なんです、私って。
ということですので今後もよろしくお願いします!
雪の日の思い出
露店形式の骨董市をやっていてやはり困るのは天変地異です。
まあそこまで大袈裟ではなくとも雨も強風も困りますが雪はやはり中々に厄介な存在なのです。
まずやめ時がむずかしい、はらはらと雪が落ちてくるというのはそれなりに風情もあるし骨董品との相性も良さげです。
ああ初雪だ風流だねぇ、なんてお客様と景色なんぞを楽しんでいるうちにどんどん強くなり吹雪とかになったら車は出せないし下手したら遭難とかするかもしれません。
それでも大雪にやられた記憶は過去40年間の露店生活でせいぜい5回程度。
そのあたりは都内近郊を中心で活動していた事の利点なのかもしれません。
でも、それ全部覚えてます。
つまりそれだけ大変だったという事なんです。
雨や突風もそれなりに大変だけど大雪とかになると荷物を積もうにも車がスタックして会場には入れないとか入ったら今度は出られないとか役員も業者さんも上へ下への大騒ぎとなってしまうのです。
私はその時居ませんでしたがさる神奈川の海岸縁でどういうわけか冬場に開催された50軒規模の骨董市が突然の大雪に見舞われた事があったのです。
もうそれは凄い降りだったようで全くどうしようもなくとりあえず露店に出した荷物にシートをかけて業者さん達は駐車場から出す事も出来なくなった車の中で無理矢理車中泊をかましたというのだから本当に洒落になりません。
一歩間違えれば車の中で遭難していたレベルです。
上野骨董市では過去やはり大雪に見舞われそれがそのまま凍結して車が出せなくなり業者さんが一丸となってタイヤが通るところだけ轍みたく凍結した氷を粉砕して一台づつなんとか脱出した事があります。
昨日の雪は確かに凄くて午後5時頃には吹雪レベルだったけど今日のお昼過ぎにはほぼ溶けてました。
それでも地方から来ている業者さんは都内はまだなんとかなっても地元の道は(凍ってて)走れないだろうからと近所のホテルに泊まっているそうです。
私も昨日は用事があったので無理矢理帰りましたが途中の山道で何台も乗用車がスタックして動けなくなってたのみました。
こちらもギリギリだったので助けられませんでしたが。
あのあと皆さんどうしたのでしょう?
上野骨董市は40年の歴史があります。
赤ちゃんが立派なおっさんになるだけの期間なのですからそれは色々な事がありました。
その中でも今だによくわからないのが30年程まえに公園がイラン人にほぼ占拠されたようになったあの遠い日々の事なのです。
確かきっかけは代々木公園じゃなかったかと思います。
当時の代々木公園で開催されていた代々木公園フリーマーケット(主催はリサイクル運動市民の会)はとても人気があり一般の参加者だけではなくて古道具から新古品や玩具を扱う専業から半専業みたいな人達まで多種多様な人達が出店していました。
人気が高く応募しても出ることが出来ない事も普通にある事でしたが基本的には電話予約のみだったのでとにかく電話をかけまくるしかなくその為に何台も電話機を買ったんだなんて業者さんも居たくらいです。
で
その頃出店していた新古品で玩具を扱っていたおじさんが中々出店出来ない事に業を煮やし自分が主催して開催しようと公園に直接交渉してしまったのです。
ところが公園は本来業者さんの営業目的での出店は出来ません。
本当はそこでやめとけば良かったのですがこのオジサンは 「業者がたくさん出ているじゃないか!」と抗議してしかも写真まで撮って「こいつもこいつも業者じゃないか!」
と突っ込んでしまったのです。
当時増え続けるゴミ問題で悩んでいた東京都としてはフリーマーケットが始まった事で都内のゴミが減り年間で少なくとも1000万円分は経費が削減されたという結果が出ていたため公園はフリーマーケットにとても好意的でした。
それもあってとてもファジーでグレーゾーンにして何とか維持していたのですがこのオジサンの行動で代々木公園を含めたフリマを開催している殆どの公園が業者の出店が不可になってしまったのです。
この影響は甚大でオジサンはほぼその界隈では出入り禁止となってしまいました。
それでそのせいかどうかはわかりませんが何故か代々木公園にたむろしていたイラン人の面倒をみるようになりやがてイラン人の父と呼ばれるようになっていたのです。
まあ困っている人達の面倒を見る事自体は良いと思うのですが果たしてそれが必ずしも良い結果に繋がるのかというとそれは微妙なのかもしれません。
なんにしてもオジサンの行動で私達業者が長年かけて作り上げた代々木公園のマーケットを失ってしまったのですから。
この同時期に上野公園でもイラン人が溢れていました。
骨董市をやっている会場の入り口近辺の一番良い場所を占拠して肉を焼いて売っていたり
偽造テレフォンカードを道行く人達に売りつけています。
それが一人や二人ではない集団なので非力な古道具屋さんとしては如何ともし難い状況なのでした。
流石の地回りも見て見ぬふりだしお巡りさんも注意はするけどほぼ放置状態です。
こちらとしても通行人にテレカ売りつけようとして揉め始めたらそれを止める為に介入していましたが言葉もろくに通じないのではやれる事も限られていました。
それがある時を境に波が引くようにいなくなったのです。
今から思ってもあれはなんだったんだろうと。
でも
それから何年かは地方から来た高校生くらいの少年たちが
ここでマリファナ売ってるって聞いたんだけどどこで買えるの?
ときいてくるので
そうか、あいつらマリファナまで売っていたのか!
と皆であきれてましたね。
イランの父はその後どうなったのかはわかりません。
一時期は新聞にまで取材されていたようですが業者としてはあちこち出入り禁止になっていたみたいでしたし。
果たしてあれからどうなって今はどうしているのでしょう?
公園に文句を言いに行くまでは会場で挨拶する程度だったけど優しげで世話好きなオジサンとして認識していたのですが。
その頃の上野骨董市は年間で100日間も開催される半ば常設のような骨董市で
訪れるお客様もほぼ常連さんでした。
その中に一際変わった老人がいて彼は季節を問わず必ず軍服を着て現れるのです。
その軍服も今戦地から帰ってきたばかりのようにくたびれたもので将校のものではなく兵隊が着ているものでした。
今は靖国神社などに兵隊コスプレで現れる人達がいる様ですが今から30年近くも前でまだコスプレそのものがあまり市民権を持っていない時代です。
彼の存在は異様であり一際目を引く存在でもありました。
彼は軍歌のSP盤(戦前から戦後すぐにかけてのレコードで蓄音機でないと聞く事が出来ません)を探しに来ているのです。
何軒かのお店を回って何枚かこれはというのを見つけるとウチの店に来てかけてくれ!というので蓄音機をだしてあげるとあとは半日くらいそこにいてずっと聞いているのです。
でも、とても気難しくて怒りっぽくて他の人が話しかけたりするとあっちへ行け!お前には関係ないだろ!と怒鳴ったりするのです。
他の業者さん達は面倒なのであまり相手にしていませんでしたが私は彼が非常に興味深かったのでたまにお茶など出してあげて蓄音機を貸してあげていました。
そうすると彼なりの気遣いなのか時々絶対いらないだろうというような缶切りやこけしなんかを買ってくれたりするのです。
それでも挨拶くらいはしたけど個人的な立ち入った話をこちらからする事はありませんでした。
そう言った関係が何年も続きやがて彼が近衛連隊にいた事や外地に戦闘に出た事も聞かせてもらうようになりました。
いいか、近衛兵なんて誰でもなれるわけじゃないんだ、兵隊として優秀なのは当たり前だがやはり信頼性からも家系というのは重要なんだ、俺が近衛兵になれたのは運とかそういうのではないんだ。
帝国陸軍というのはそういうものなんだ。
と言っていたのを覚えています。
それからまた随分日が経ってようやく打ち解けて世間話もするようになったある日彼は軍服ではなく洒落た背広を着て照れ臭そうに現れたのです。
いや、今日は集まりがあってな、その帰りなんだ。
また明日くるからな。
そう言って帰ったのだけどそれからしばらく来なくて半年くらいして現れたのですがその時はジャージのようなものを着ていて喉に包帯を巻いていました。
どうしたんですか?
と聞いたらどうも喋れないらしい、それで紙とマジックを渡したら手術して声がでない、レコードはあるか?
とあったので
いつも通り蓄音機とレコードを出すとまた紙に
聞いてみてもいいか?
と書いてあったので勿論です。
ゆっくりしていってください。お茶飲みますか?
と聞いたら
喉の包帯をさしてダメという仕草をしたのであとはそばにいてぼちぼち筆談していました。
この前背広できた次の日に検診があってそこで病気なのがわかりそのまま入院して手術をうけたのだそうです。
喋れなくはなったけど一応手術は成功したと。
次に来る時には喋れるようになるからとレコードを何枚か買って帰って行きました。
それからしばらく経ってまた上野骨董市が始まった初日に喉にあてると声を出せる機械を持って現れて
ほらちゃんと喋れるだろうと笑っていました。
思えば彼が笑うのをみたのは初めてでした。
彼はアルバムと葉書を沢山持って来ていてこれでみた事を誰にも言うなよ、と言いながら見せてくれたのですがそれには美空ひばりや南伸介や往時の有名人達と並んで写っている彼のアルバムでした。
身なりもキチッとしていてただの軍隊なお爺さんではないのをようやく理解させていただきました。
これをおまえにやるよ!
これを売って金にするといい、この葉書も美空ひばりや有名人のものからのものだ。
それなりな金額にはなるだろう。
いや、でもこれはお爺さんのとても大切なものでしょう。
そんなもの貰えないし売り買いするなんて出来ません。
気持ちだけでもとても嬉しいのでそれでいいんです。
そうか?おまえは本当に欲がないな、
じゃあ欲しくなったらいつでも言ってくれ
それと今度うちに食事に来ないか?ご馳走様するよ!
あ、それは行きたいです。
じゃあ来会また来ますので都合の良いときに声を掛けてください。
と別れたきり連絡が途絶えました。
半年くらいして彼が病床につきそのまま他界したと聞きました。
私のなかでは近衛兵として生きておそらく大逆事件も経験され終わらない戦争をずっと生きて来たのではないかと勝手に想像しています。
でも最後にお洒落な背広を着て照れ臭そうに現れたときには少しだけでも戦争から離れる事が出来たのではと。
食事に行けなかったのは残念だけどあちらの世界でゆっくりと休んで貰えればと思うのです。
かれこれ40年近く上野公園でお店を出していると実に色々な人達とお知り合いになりその人の人生にも関わる事があります。
そのオーダースーツに身を包んだ当時60代のおじさんは夏でもネクタイを緩める事なく40代の秘書という女性を引き連れ上野骨董市の私のお店に現れました。
きっかけはなんだったか覚えていませんがほぼ毎日お昼過ぎになると現れてお店の椅子にどっかと座りそのまま閉店までお店にいるのが常でした。
秘書さんは他に仕事があるのかそのまま何処かに消えてしまいお店を閉める頃になると現れて2人で夕闇に消えて行くのです。
こちらから素性を聞く事はありませんでしたが毎回必ず現れてほぼ1日居るのですから会話の流れの中でかつては岸総理大臣の秘書の一人でありロッキード疑惑の時に証拠の隠滅をはかりそのまま自分も政界から引退したのだという事でした。
それ以降は政界の汚れ仕事をやるようになり簡単に言えば整理屋のような事をしていると言っていました。
嘘か本当かなど全く判断できかねる事でしたがちょうど小泉政権が誕生する3カ月程前でありまだニュースにもならなかった時に
「マンタムさんは小泉さんを総理大臣にするってどう思いますか?」
と聞かれて
「そもそも小泉ってだれ?ってレベルなのでなんとも言えないですね」
と答えたら
「そうなんですよ、3代目なのにあまり目立っていませんからね、でも自民党ではもう規定路線なんです、それで彼一人では弱いので当て馬を付けたいと思うのですがマンタムさんなら誰にしますか?」
と言われてもあまり興味もなくどうでも良かったので
「田中眞紀子なんていいんじゃないですか?」
と答えたら
「なるほど、実は私も同意見なんですよ!あ、もうこんな時間か!ちょっとこれから用事があるんで今日は帰りますね!二、三日来れないかもですがまた来ますね」
と帰って行きました。
結果その通りになったわけですがそのあと彼が「小泉の家は親子3代政界に居るのでそれだけ政界や官僚に影響力があるんですよ、特にこの国の官僚の力は絶大です、現実には政治家が官僚の顔色を伺っているといってもいい、でもこれからは変わっていきますよ!」
確かに変わったけどあまり良い方に行ったとは言えないようです。
それからしばらくして暑い夜に
「マンタムさんは反対するだろうけどいずれこの国は憲法を改正して徴兵制になりますよ、これは自民党の既定路線なんです、もう今迄みたいな土地転がしみたいな箱物政策ではもう経済が回らないんですよ、韓国みたいな徴兵制にすれば服から戦車や電子機器も全て国がお金を回して一気に経済を動かせるんですよ、別に戦争をするわけじゃない、ね?そう考えると悪くないでしょう?」
いや、なんと言われようが言いくるめられないし絶対認めませんけどね。
でもあれから20年が経過して現実になりつつあるようです。
ここまで社会が変わるなど当時は考えてもいませんでしたがもう予断を許さない状況に来ていると考えるべきでしょう。
オジサンは3年くらい骨董市に顔を出していたのですが新たに現れてやっぱり一日中お店に座っている元TBSディレクターが彼に興味を持ち取材を持ちかけたのです。
オジサンはその時は笑って誤魔化してましたがそれからしばらくして閉店間際に現れ
「急なハナシなのですが20万円ほど貸して貰えませんか?嫁に浮気がバレてカードを止められてしまったんです、でも明日から京都で整理の仕事で動かないといけない、活動資金が必要なんです、来週には帰って来れるしその時点でお金は返せますから」
20万は無かったのでとりあえず15万円貸しました。
その場で借用書を書き一応免許書で住所も確認しました。
住所は台東区になってましたね。
で
そのまま消えてしまったのです。
借用書の住所は存在しないものでした。
それから一年くらい経って以前そのオジサンに紹介された地回りが現れて
「あいつは何処へ行ったか知らないか?」
と
よくよく話を聞いてみたら彼も突然お金を貸してと言われて倍にして返すと言われて50万くらい貸したというのです。
勿論そのまま連絡もなにもないので色々調べてみたが結局足取りはつかめなかった、でもあの秘書というのは彼の女で彼女は彼をウチの店においてその間に売春していたというのです。
つまりヒモという事なのですが詐欺もやっていたようでウチの店の客を品定めしていたんじゃないかと言うのです。
さて
本当はどうだったんでしょう?
オジサンは来る度に骨董市の皆さんになにか差し入れでも買ってあげて下さいと2〜3万というお金をポンと出し、くる度に大量のドーナツなんかを買ってきてくれてました。
多分私が貸した以上のお金は使ってくれていたと思います。
ですから15万はともかくとして一体何者だったのか、今だと80歳を超えているだろうけどまた突然現れるような気がするのです。
コロナは本当に大変でした。
基本的にお店を持たずに露店形式で仕事をしている古道具屋さん達にとってその会場になる骨董市そのものが開催されないというのはそのまま死活問題に直結します。
ですから飲食業が協力金という形で補償されていたのは実に羨ましい限りでした。
確かに色々な救済制度はあったものの手続きが煩雑でとれても月に10万円前後。
固定費だけでも月にそれ以上はかかります。
それに比べて飲食への協力金は最初は6万円でそれから下がったりかなり遅れたらしていたようですがそれでも1日で4万円は出ていたわけで月にすれば120万円。
しかも感染の原因としては特に飲食が原因ではありませんでした。
要は人の出歩きを止めたいという事なのでしょうがそれならちゃんと給付金など出して国民に一カ月家に篭って貰えば良いのだけど、それはやる気すらなかったようです。
感染を広げている一番大きな要素は明らかに朝晩の満員電車なのだけどそれを認めると労災の適用になるし会社をストップして一番困るのは大企業だったりするので手近なところに責任を押し付けて目先をそらそうとしているとしか思えませんでした。
結局国民全体にはたった一回10万円給付しただけで飲食業に対しての協力金もあとから税金で回収する魂胆が透けてみえるようです。
今回のコロナ禍で撤退した古道具屋さんは結構いると思います。
再開された骨董市でもかつての賑わいは感じられません。
出店数も減ってしまったし未だ復帰出来ない骨董市も結構あるのです。
業者さんもお客様も心なしか元気がないようです。
それでも生き延びただけ大したものだと思いますがそこは古道具屋さん達のしぶとさあっての事だと思います。
さて
この後どうなるのか?
全く予断を許しませんが少なくとも以前と同じようにはならないと思います。
そう言えばコロナ前にすっかり公園の鳩達と仲良くなっていたのですが今年の夏に臨時で復活した上野骨董市で一年半ぶりに再開ししっかり覚えていてくれたのはとても嬉しかったのです。
でも
大分痩せていたけど。
最近ずっと一緒に暮らしていた猫が死んでしまいました。
享年16歳
もともと大人しい性格で
でも甘えたで家にいる時は私が仕事さえしていなければずっと膝にいるような猫でした。
かなり前の上野骨董市で確か春か5月の骨董市だったかと思いますがその頃よく骨董市に顔を出していた浮浪者がゴミ袋に詰めてゴミ捨て場に捨ててあった、自分ではどうにも出来ないから助けてやってと持ち込んで来たのです。
その時点でウチには先住猫がいたのでいずれ飼い主を探さないとな、などと思いながら引き受けたのです。
お店に来た馴染みのお客様に猫ミルクを買ってきて貰ってとりあえずミルクをあげて夕方早めにお店を閉めて家に帰りました。
そうしたら先住猫のチョビさんが連れ帰った赤ちゃん猫の声を聞いて母性が復活したのかそれとも自分の子供と誤認したのかさっさと咥えて隠れてしまいました。
もうこうなるとどうしようもなく結局朝になっても出てこないので気がかりのまま上野の骨董市に出掛けその日も早く店仕舞いして帰ってみたら疲れきって大の字で寝るチョビさんと鳴き続ける赤ちゃん猫がベッドで私を待っていました。
チョビさんの母性も今更出る筈もないお乳では流石にどうにもならず私に助けを求めていたのです。
用意しておいたミルクを赤ちゃん猫にあげてそれからは真夜中でも二時間おきにミルクをあげチョビさんがお尻を舐めて排尿させるという日々が続きました。
でも2週間もすると元気に飛び跳ねる子猫になりチョビさんは良いお母さんになってせっせと世話をしていました。
赤ちゃん猫はルリさんと名付け結局ウチの新しい家族になったのです。
色々な事があってルリさんが7歳くらいになった頃にチョビさんが行方不明になりその3年後に外の倉庫で死んでいるのが見つかりました。
もしかするとルリさんは知っていて時々会いに行っていたのかもと今は思います。
チョビさんの得意技はモグラを狩る事で私が風邪とかで寝込んでいると取って来たばかりのまだピクピク動いているモグラを枕元に置いて さ!これ食べて元気だせよ! と見守られいたのを思い出します。
で
この技をルリさんも教えられていたらしく一体何処で取ってくるのかやっぱり寝込むと枕元にモグラなのでした。
もう
モグラが枕元に来る事もなくなるんだね、と私の腕の中で息を引き取るルリさんをずっと抱いていました。
あれからもう一ヶ月経つけど喪失感はやはり拭い去ることは出来ないようです。
あんまり古道具や骨董市と関係なくてごめんなさい。
今度はもう少し骨董なんかに寄せて書きますね。
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